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小笠原長時とは何者か?武田信玄に敗れた信濃守護のその後

小笠原長時と信濃の山城を描いたアイキャッチ 武田信玄に敗れた信濃守護のその後を紹介する記事

小笠原長時おがさわらながときは、戦国時代の信濃国しなののくにで活躍した武将です。

知名度では武田信玄や上杉謙信ほどではないかもしれませんが、長時はもともと信濃守護の名門・小笠原氏の当主でした。

ところが、武田晴信、のちの武田信玄による信濃侵攻のなかで敗れ、本拠を失い、その後は各地を転々とすることになります。

小笠原長時を知ると、塩尻峠の戦い武田信玄の信濃侵攻、さらに松本城の前史までつながって見えてきます。

この記事では、小笠原長時とは何者だったのか、なぜ武田信玄に敗れたのか、その後どうなったのかを、初心者にもわかりやすく整理します。

小笠原長時とは?まずは簡単にいうと

ここがポイント

・小笠原長時は、信濃守護の名門・小笠原氏の当主
・本拠は松本周辺の林城だった
・武田信玄の信濃侵攻によって信濃を追われた

小笠原長時を簡単にいうと、武田信玄に敗れた信濃の名門武将です。

小笠原氏は、室町時代から信濃と深く関わってきた一族でした。長時はその家を継ぎ、松本平周辺をおさえる有力な武将として活動しました。

まずは基本情報を整理してみましょう。

項目 内容
名前 小笠原長時
読み方 おがさわら ながとき
生年 永正11年(1514)
没年 天正11年(1583)
主な拠点 林城・深志周辺
家柄 信濃守護・小笠原氏
小笠原長棟
小笠原貞慶
関係する人物 武田信玄、村上義清、上杉謙信、三好長慶、足利義輝

小笠原長時は、ただの地方武将ではありません。

もともとは信濃守護の家柄を背負う人物でした。ただし、戦国時代になると、室町幕府から与えられた「守護」という肩書きだけでは国を治めきれなくなっていきます。

そのなかで長時は、武田信玄という強力な戦国大名と向き合うことになりました。

小笠原氏はどんな家?信濃守護の名門だった

ここがポイント

・小笠原氏は、信濃守護を務めた名門
・松本平周辺に勢力を持っていた
・長時は、その名門を受け継いだ当主だった

小笠原氏を理解するうえで大切なのが、信濃守護という立場です。

守護しゅごとは、室町幕府が国ごとに置いた有力武士のことです。現代の感覚でそのまま置き換えることはできませんが、その国の武士をまとめ、軍事や治安にも関わる重要な立場でした。

小笠原氏は、その信濃守護を務めた名門です。

信濃は山が多く、地域ごとに有力な武士が割拠していたため、ひとつの勢力が全体をまとめるのは簡単ではありませんでした。そうしたなかで小笠原氏は、松本平周辺に勢力を持ち、信濃の有力者として存在感を示していました。

つまり、小笠原長時は、急に現れた武将ではなく、信濃の名門としての歴史を背負った人物だったのです。

しかし、戦国時代には名門であることだけでは十分ではありません。周囲の国人領主こくじんりょうしゅをまとめ、家臣の離反を防ぎ、軍事力を保つことが必要でした。

そうした時代の変化のなかで、長時は苦しい立場に置かれていきます。

小笠原長時の本拠・林城とは

ここがポイント

・小笠原長時の本拠は、松本市周辺の林城
・林城は小笠原氏の山城だった
・深志城、そして松本城の前史を考えるうえでも重要

小笠原長時の本拠は、現在の長野県松本市にあった林城です。

林城はやしじょうは、松本平の東側に築かれた山城で、小笠原氏の本拠として機能しました。

戦国時代の城というと、現在の松本城のような天守を思い浮かべるかもしれません。しかし、長時の時代に重要だったのは、山の地形を利用した山城でした。

林城は、小笠原氏にとって単なる城ではありません。小笠原氏の権威を示す本拠であり、松本平をおさえるための中心地でもありました。

また、長時の時代の松本周辺を見ると、林城だけでなく、深志城ふかしじょうも重要です。深志城は、のちの松本城につながる城として知られています。

林城・塩尻峠・深志城・松本城の位置関係を示した図解 林城は東側の山城、塩尻峠は南、深志城と松本城は中央にある

現在の松本城そのものは、長時の時代に完成していたわけではありません。それでも、松本城の前史をたどると、小笠原氏と武田氏の争いが深く関わってきます。

なぜ武田信玄と戦うことになったのか

ここがポイント

・武田信玄は甲斐から信濃へ勢力を広げた
・信濃は地域ごとに有力武将がいた
・長時は松本平をおさえる存在として、武田とぶつかった

小笠原長時が武田信玄と戦うことになった背景には、武田信玄の信濃侵攻があります。

武田信玄は、甲斐国、現在の山梨県を本拠とした戦国大名です。信玄は甲斐の外へ勢力を広げるため、北西にある信濃へ進出していきました。

ただし、信濃はひとつの勢力が単純に支配していた国ではありません。諏訪、佐久、小県、松本平、北信濃など、地域ごとに有力な武将たちがいました。

そのため、信玄の信濃侵攻は一度の合戦で終わるものではなく、諏訪氏、村上義清、小笠原長時といった信濃の有力者とぶつかりながら、少しずつ進んでいきました。

小笠原長時は、そのなかでも松本平周辺をおさえる重要人物でした。信玄から見れば、長時を破ることは、信濃中部への進出を進めるうえで大きな意味を持っていたのです。

塩尻峠の戦いで大きく敗れる

ここがポイント

・天文17年(1548)、小笠原長時は武田晴信と塩尻峠で戦った
・この敗北が、小笠原氏の勢力低下の大きなきっかけになった
・家臣の離反もあり、長時は厳しい状況に追い込まれた

小笠原長時を語るうえで欠かせないのが、塩尻峠の戦いです。

塩尻峠しおじりとうげの戦いは、天文17年(1548)に起きた、小笠原長時と武田晴信の戦いです。

この戦いで長時は敗れました。

ここで大事なのは、長時が単に戦場で負けたというだけではないことです。塩尻峠の戦いでは、味方の離反もあったとされており、長時の支配の内側が揺らいでいたことがうかがえます。

戦国時代の合戦では、兵の数だけでなく、家臣や周辺勢力をどれだけまとめられるかが勝敗を大きく左右しました。

小笠原長時は、信濃守護の名門でした。しかし、周囲の勢力を完全にまとめきれていたわけではありません。

塩尻峠の戦いは、小笠原氏にとって大きな転落のきっかけになりました。

詳しくは、別記事の塩尻峠の戦いでも整理しています。

林城を失い、信濃を追われる

ここがポイント

・塩尻峠の敗北後も、長時はすぐには完全に滅びなかった
・しかし天文19年(1550)、武田氏の攻勢で本拠を失った
・林城や深志周辺を失ったことで、長時は信濃を離れることになった

塩尻峠の戦いに敗れたあとも、小笠原長時はすぐに完全に滅びたわけではありません。

しかし、武田氏の圧力は続きます。そして天文19年(1550)、長時はさらに大きな打撃を受けました。

武田晴信は、松本平方面への攻勢を強め、小笠原長時は林城や深志周辺を維持できなくなります。

ここで出てくるのが、自落じらくという言葉です。これは、激しい攻城戦の末に落ちるというより、敵の勢いを見て味方が離れたり、城を保てなくなったりして、自ら城を捨てるような形で落ちることをいいます。

長時にとって、林城や深志周辺を失うことは、単に城を失う以上の意味がありました。それは、信濃守護の名門としての本拠を失うことだったからです。

ここから長時の人生は、信濃の有力当主から、各地を転々とする流浪の武将へと変わっていきます。

小笠原長時は弱かったのか?

ここがポイント

・長時を「弱い武将」とだけ見ると単純すぎる
・相手は急成長する武田信玄だった
・名門の権威だけでは、戦国時代を生き抜けなかった

小笠原長時は、武田信玄に敗れた武将として語られます。そのため、「弱かった武将」という印象を持たれることもあります。

ただ、それだけで片づけるのは少し単純です。

長時は、信濃守護の名門を背負っていました。一方で、戦国時代は、守護という伝統的な権威よりも、実際に土地を支配し、家臣をまとめ、軍事力を動かせるかが問われる時代でした。

武田信玄は、まさにその力を伸ばしていた戦国大名です。

長時は名門ではありましたが、周囲の国人領主を完全にまとめきることができませんでした。つまり、小笠原長時の敗北は、個人の弱さだけでなく、守護の時代から戦国大名の時代へ移っていく流れのなかで起きたものだったと見ると理解しやすくなります。

長時は「弱かったから負けた」というより、戦国時代の変化に飲み込まれた名門武将だったといえるでしょう。

信濃を追われたあとの小笠原長時

ここがポイント

・長時は信濃を追われたあとも、復帰をあきらめなかった
・村上義清、上杉謙信、三好長慶などを頼った
・名門としての武芸や礼法の伝統も、各地で評価された

信濃を追われた小笠原長時は、その後、各地を転々としました。頼った相手としては、村上義清、上杉謙信、三好長慶などが知られています。

ここで注目したいのは、長時が本拠を失っても、武将としての価値を完全に失ったわけではなかったことです。

小笠原氏には、単なる領地だけでなく、武家の作法や弓馬の伝統という強みがありました。

弓馬きゅうばとは、弓術や馬術のことです。戦国武将というと、合戦で勝つか負けるかに目が向きがちですが、武家社会では弓馬や礼法の知識も重要な教養でした。

小笠原長時は、領地を失っても、名門としての格式と技術を持っていたのです。そのため、流浪の身になっても、各地で一定の価値を持つ人物でした。

小笠原長時は、ただ落ち延びただけの武将ではありません。失った信濃への復帰を願いながら、名門小笠原氏の伝統を背負って生き続けた人物でした。

芥川城・足利義輝・上杉謙信との関係

ここがポイント

・長時は三好長慶を頼り、畿内にも身を寄せた
・将軍・足利義輝とも関わりがあった
・上杉謙信による信濃復帰支援も期待されたが、実現しなかった

小笠原長時のその後を追うと、信濃だけでなく、畿内や越後、会津にまで話が広がります。

長時は、武田信玄に敗れて信濃を追われたあと、三好長慶みよしながよしを頼ったとされています。三好長慶は、畿内で大きな勢力を持った戦国大名です。

そのなかで、長時は摂津国の芥川城あくたがわじょうにも身を寄せたとされています。

また、長時は将軍・足利義輝あしかがよしてるとも関わりを持ちました。長時は、将軍家に対して弓馬の技術を伝える立場にもなったとされます。

ここにも、小笠原氏が単なる地方領主ではなく、武家の礼法や武芸に関わる名門だったことが表れています。

さらに、長時の信濃復帰には、上杉謙信うえすぎけんしんとの関係もありました。上杉謙信は、武田信玄と川中島で何度も対立した越後の戦国大名です。

長時にとって、武田に対抗できる上杉謙信は、信濃復帰への希望でもありました。しかし、長時自身が信濃へ戻ることは、ついに実現しませんでした。

小笠原長時の最期

ここがポイント

・長時は晩年、会津へ移った
・信濃への帰国は実現しなかった
・天正11年(1583)、会津で最期を迎えた

小笠原長時は、晩年に会津へ移りました。会津では、蘆名氏あしなうじのもとに身を寄せたとされています。

長時は、信濃への帰国を願いながらも、それを果たすことはできませんでした。そして天正11年(1583)、会津で最期を迎えます。

信濃守護の名門として始まった長時の人生は、武田信玄の信濃侵攻によって大きく変わりました。本拠を失い、その後は各地を転々としながらも、旧地回復を願い続けた生涯だったといえます。

ただし、小笠原氏そのものがここで終わったわけではありません。長時の子・小笠原貞慶が、のちに旧地回復を果たします。

子の小笠原貞慶が松本を回復する

ここがポイント

・長時自身は信濃へ戻れなかった
・しかし子の小笠原貞慶が深志を回復した
・深志は松本と改められ、のちの松本城の歴史につながる

小笠原長時自身は、信濃へ戻ることができませんでした。

しかし、長時の子である小笠原貞慶は、旧地回復を果たします。

天正10年(1582)、武田氏が滅亡します。この混乱のなかで、小笠原貞慶は深志を回復しました。そして、深志の地は松本と改められます。

現在の松本城の天守は、長時の時代に建てられたものではありません。松本城の天守は、のちの石川氏の時代に整えられていきます。

つまり、長時の時代の深志城と、現在見られる国宝松本城の天守は、時代が異なります。

それでも、松本城の前史をたどると、小笠原氏、武田氏、そして小笠原貞慶の旧地回復が大きく関わってきます。松本城を見るときは、天守の美しさだけでなく、小笠原氏の旧地回復の舞台となった場所として見ると、歴史の見え方がより深くなります。

小笠原長時の生涯年表

ここがポイント

・長時の人生は、信濃の名門当主から流浪の武将へ大きく変わった
・1548年の塩尻峠、1550年の林城喪失が大きな転機
・長時の死後、子の貞慶が松本を回復した

小笠原長時の生涯を、年表で整理してみましょう。

出来事
1514年 小笠原長時が生まれる
1548年 塩尻峠の戦いで武田晴信に敗れる
1550年 武田氏の攻勢により、林城や深志周辺を失う
1550年代 村上義清、上杉謙信、三好長慶などを頼る
1560年代 三好長慶や足利義輝とも関わり、弓馬・礼法の名門として活動する
晩年 会津へ移る
1582年 武田氏滅亡後、子の小笠原貞慶が深志を回復し、松本と改める
1583年 小笠原長時、会津で死去

小笠原長時の生涯年表 信濃守護の名門に生まれ、塩尻峠で敗れ、各地を流浪し、会津で最期を迎えるまでを整理した図解

この年表を見ると、小笠原長時の人生は、前半と後半で大きく変わったことがわかります。

前半は、信濃の名門当主としての人生。後半は、本拠を失い、信濃復帰を願いながら各地を転々とする人生です。

小笠原長時は、戦に敗れたことで歴史の表舞台から退いた人物のようにも見えます。しかし、その後も名門としての価値を持ち続け、旧地回復への思いをつなぎ続けた人物でした。

小笠原長時を知ると、武田信玄の信濃侵攻がわかりやすくなる

ここがポイント

・長時は武田信玄の信濃侵攻を理解する重要人物
・信玄の強さだけでなく、信濃側の事情も見えてくる
・塩尻峠の戦い、松本城、川中島の戦いへ話がつながる

小笠原長時を知ると、武田信玄の信濃侵攻がぐっとわかりやすくなります。

武田信玄の信濃侵攻というと、どうしても信玄側から見てしまいがちです。しかし、信濃にはもともと有力な武将たちがいました。

小笠原長時は、松本平周辺をおさえていた信濃守護の名門です。村上義清は北信濃方面で武田に立ちはだかった有力武将で、諏訪氏も信玄の信濃侵攻の初期に深く関わります。

こうした人物を一人ずつ見ていくと、信濃侵攻は単なる「武田信玄の領土拡大」ではなく、信濃の有力武将たちとの連続した戦いだったことが見えてきます。

小笠原長時は、そのなかでも松本平をめぐる攻防を理解するための重要人物です。塩尻峠の戦い、林城の喪失、深志城の武田支配、そしてのちの松本城へと、歴史が自然につながっていきます。

まとめ:小笠原長時は、信濃守護の名門から流浪の武将になった人物

小笠原長時は、信濃守護の名門・小笠原氏の当主でした。本拠は、現在の松本市周辺にあった林城です。

しかし、武田晴信、のちの武田信玄による信濃侵攻のなかで、天文17年(1548)の塩尻峠の戦いに敗れ、さらに天文19年(1550)には本拠を失いました。

その後の長時は、村上義清、上杉謙信、三好長慶などを頼り、各地を転々とします。信濃への帰国を願いながらも、それは実現せず、晩年は会津で最期を迎えました。

一方で、長時の子・小笠原貞慶は、武田氏滅亡後に深志を回復し、松本と改めます。

小笠原長時は、勝者として語られる武将ではありません。しかし、武田信玄の信濃侵攻、塩尻峠の戦い、松本城の前史を理解するうえで、とても重要な人物です。

「信玄に敗れた武将」としてだけでなく、名門の誇りを背負い、旧地回復を願い続けた信濃守護として見ると、小笠原長時の人生はより立体的に見えてきます。

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