武田信玄が、甲斐の戦国大名から東国屈指の大勢力へ成長していくうえで、最も重要な転機となったのが信濃国への侵攻です。
父・武田信虎を追放して武田家の当主となった信玄は、その翌年から信濃へ本格的に進出していきます。
最初に狙ったのは、甲斐と接する諏訪でした。
そこから上伊那、佐久、小県、筑摩へと勢力を広げ、信濃の有力者である村上義清や小笠原長時と激しく争うことになります。
しかし、信濃侵攻は武田軍の一方的な勝利ではありませんでした。
上田原の戦いでは村上義清に敗れ、砥石城の攻略でも大きな損害を受けています。
信玄はこうした苦戦や敗北を経験しながらも、信濃の各地を少しずつ支配下に組み込み、やがて越後の長尾景虎、のちの上杉謙信との対立へ進んでいきました。
この記事では、武田信玄がなぜ信濃を狙ったのか、どのように勢力を広げ、なぜ川中島の戦いへつながったのかをわかりやすく解説します。
この記事でわかること
- 武田信玄が信濃へ侵攻した理由
- 諏訪・佐久・小県・筑摩へ広がった侵攻の流れ
- 村上義清や小笠原長時との戦い
- 上田原や砥石崩れで信玄が苦戦した理由
- 信濃侵攻が川中島の戦いへつながった経緯

- 信濃侵攻とは何か
- 武田信玄はなぜ信濃を狙ったのか
- 信濃侵攻の出発点|諏訪頼重と諏訪侵攻
- 上伊那・佐久への進出|信濃の東と南へ勢力を広げる
- 村上義清の壁|上田原の戦いと砥石崩れ
- 塩尻峠合戦と小笠原氏の後退|松本平を手に入れる
- 信濃侵攻は「攻める」だけでは終わらなかった
- 信濃侵攻はなぜ川中島の戦いにつながったのか
- まとめ|信濃侵攻は武田信玄を大大名へ押し上げた
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信濃侵攻とは何か
この章のポイント
- 信濃侵攻は、信玄が信濃各地へ段階的に進出した一連の戦い
- 1542年の諏訪攻略から、1553年の川中島の戦いの始まりへつながる
- 一気に信濃全体を制圧したのではなく、勝利と敗北を重ねながら進んだ
信濃侵攻とは、武田信玄が甲斐の北に広がる信濃国へ進出し、各地の国衆や有力者と戦いながら支配を広げていった一連の動きです。
信玄が父・信虎を追放して武田家の当主となったのは、天文10年(1541年)です。
その翌年、信玄は諏訪へ侵攻します。
以後、上伊那、佐久、小県、筑摩、そして北信濃へと戦いの舞台を広げていきました。
信濃侵攻は、ひとつの大きな合戦ではありません。
信濃には諏訪氏、村上氏、小笠原氏、高梨氏など、多くの有力者がそれぞれの地域で力を持っていました。
信玄は地域ごとに城を攻略し、味方となる国衆を増やし、ときには敵対する勢力を追い出しながら、長い時間をかけて勢力を広げていったのです。
大まかな流れを整理すると、次のようになります。
| 年 | 主な動き |
|---|---|
| 1542年 | 諏訪へ侵攻し、諏訪頼重を滅ぼす |
| 1540年代半ば | 上伊那・佐久方面へ進出 |
| 1548年 | 上田原の戦いで村上義清に敗北 |
| 1548年 | 塩尻峠で小笠原長時を破る |
| 1550年 | 松本平へ進出し、林城が自落 |
| 1550年 | 砥石城の攻略に失敗し、大きな損害を受ける |
| 1551年 | 砥石城を手に入れ、小県での足場を強める |
| 1553年 | 村上義清が越後へ逃れ、川中島の戦いが始まる |
信濃侵攻は、信玄が最初から無敵だったことを示す戦いではなく、苦戦や失敗を重ねながら大勢力へ成長していく過程でした。

武田信玄はなぜ信濃を狙ったのか
この章のポイント
- 信濃は甲斐の北に接する重要な地域だった
- 信濃には有力な国衆が並び、武田氏にとって脅威でもあり機会でもあった
- 信濃へ進出することは、領土を広げるだけでなく北方への道を開く意味もあった
信玄が信濃を狙った理由として、まず大きいのは地理的な近さです。
甲斐国は山に囲まれた内陸国で、その北側には広い信濃国がありました。
とくに諏訪は、甲斐から信濃へ入る重要な入口にあたります。
信濃へ本格的に進出するためには、まず諏訪を押さえる必要がありました。
また、当時の信濃は、一つの強い勢力によって統一されていたわけではありません。
諏訪氏、村上氏、小笠原氏、高梨氏など、多くの有力者がそれぞれの地域で力を持っていました。
つまり信濃は、武田家にとって簡単に攻め取れる土地ではない一方、勢力を広げる余地も大きい地域だったのです。
信濃へ進出することには、甲斐の北側を安定させる意味もありました。
北に有力な敵がいる状態では、甲斐の安全を保つことは難しくなります。
反対に、信濃の各地を味方につければ、武田家は甲斐一国の戦国大名から、より広い地域を支配する大勢力へ成長できます。
さらに、北信濃へ進出すれば、越後や北陸方面とも接することになります。
のちに上杉謙信と対立することになるのも、信濃侵攻が進んだからこそでした。
| 理由 | 信玄にとっての意味 |
|---|---|
| 甲斐と接する地域だった | 北側の安全を確保しやすい |
| 有力な国衆が分立していた | 一つずつ取り込めば勢力を広げられる |
| 諏訪が信濃への入口だった | 信濃各地へ進出する足場になる |
| 北信濃の先に越後がある | 北方へ勢力を広げる道が開く |
信濃で対立した主な勢力も、あらかじめ押さえておくと流れを追いやすくなります。
| 勢力 | 主な拠点・地域 | 信玄との関係 |
|---|---|---|
| 諏訪氏 | 諏訪 | 信濃侵攻の最初の標的 |
| 村上氏 | 小県・北信濃 | 上田原・砥石城で武田軍を苦しめた強敵 |
| 小笠原氏 | 筑摩・松本平 | 塩尻峠を経て勢力を失った信濃守護家 |
| 高梨氏 | 北信濃 | のちに武田軍を警戒し、越後の長尾景虎と関わる |
また、武田信玄が信濃方面へ力を向けるうえでは、南の今川氏や東の北条氏との関係も重要でした。
武田・北条・今川の関係については、甲相駿三国同盟とは?武田・北条・今川の関係をわかりやすく解説で詳しく紹介しています。
信濃侵攻の出発点|諏訪頼重と諏訪侵攻
この章のポイント
- 信玄は1542年、まず諏訪を攻略した
- 諏訪頼重は信玄の義兄にあたる人物だった
- 諏訪の掌握は、信濃侵攻の出発点となった
信玄が信濃へ本格的に進出する最初の大きな一歩となったのが、諏訪侵攻です。
当時の諏訪を治めていたのは、諏訪頼重でした。
頼重は信虎の娘を妻に迎えていたため、信玄にとっては義兄にあたる人物です。
つまり、諏訪侵攻は単純な隣国への侵略ではありませんでした。
姻戚関係にあった相手を攻める、武田家にとっても大きな決断だったといえます。
信玄は、諏訪氏の一族である高遠頼継らの動きも利用しながら諏訪へ攻め込み、頼重を追い詰めます。
頼重は最終的に降伏し、甲府へ送られた後に自害しました。
これによって、諏訪氏の惣領家は滅亡します。
ただし、信玄は高遠頼継に諏訪を任せたわけではありませんでした。
諏訪の支配をめぐって頼継とも対立し、最終的に信玄は諏訪を自らの支配下に置いていきます。
諏訪を押さえたことで、信玄は信濃へ進むための重要な入口を確保しました。
軍事的な意味だけではありません。
諏訪は、信濃支配をさらに進めるための拠点にもなりました。
信濃侵攻は、諏訪を手に入れたことで初めて本格的に動き出したのです。
諏訪侵攻については、こちらの記事で詳しく紹介しています。 blog.castle-journey.com
上伊那・佐久への進出|信濃の東と南へ勢力を広げる
この章のポイント
- 信玄は諏訪攻略後、上伊那や佐久方面へ進出した
- 信濃侵攻は、地域ごとの国衆を取り込む形で進んだ
- 佐久方面への進出が、村上義清との本格的な対立につながった
諏訪を支配下に置いた信玄は、次に上伊那や佐久方面へと進出していきます。
上伊那は諏訪の西側、佐久は甲斐の北東側に広がる地域です。
信濃侵攻は、大軍で信濃全体を一気に攻め取るようなものではありませんでした。
地域ごとに城を攻略し、味方になる国衆を増やし、ときには敵対する勢力を追い出す。
そうした積み重ねによって、武田家は信濃での支配を少しずつ広げていきます。
とくに佐久方面への進出は重要でした。
佐久を押さえることで、信玄は小県や北信濃へ向かう足場を得ることになります。
しかし、武田軍が佐久や小県へ進むほど、信濃東部から北部にかけて強い影響力を持っていた村上義清との距離は近づいていきました。
村上義清は、葛尾城を本拠とし、小県や北信濃にも大きな影響力を持っていた有力者です。
信玄にとって村上義清は、信濃全体を支配するために越えなければならない大きな壁でした。
この対立が、のちの上田原の戦い、砥石崩れ、そして川中島の戦いへとつながっていきます。
村上義清の壁|上田原の戦いと砥石崩れ
この章のポイント
- 1548年、信玄は上田原の戦いで村上義清に敗れた
- 1550年の砥石城攻略でも大きな損害を受けた
- 信濃侵攻は、信玄にとって苦戦と学びの連続でもあった
信濃侵攻の中で、信玄が大きな挫折を味わった戦いが上田原の戦いです。
天文17年(1548年)、信玄は村上義清を破るため、小県へ兵を進めました。
武田軍は上田原周辺で村上軍と激突します。
しかし、戦いは武田軍にとって厳しい結果となりました。
武田家の重臣であり、諏訪郡代も務めていた板垣信方が戦死。
さらに甘利虎泰など、多くの有力な家臣を失いました。
信玄自身も負傷したと伝わります。
上田原の戦いは、信玄が当主となってから経験した大きな敗北でした。
上田原の戦いについては、こちらの記事で詳しく紹介しています。
1548年の上田原の戦いでは、武田信玄が村上義清に敗れ、板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失いました。信玄の信濃侵攻が大きく停滞するきっかけとなった重要な敗戦です。
武田軍は強かった。
しかし、信濃の国衆もまた、自らの領地の地形と人のつながりを生かして戦う強敵だったのです。
信玄は、その後も村上義清を倒すために動きます。
天文19年(1550年)には、村上方の重要拠点である砥石城を攻めました。
しかし、堅固な山城である砥石城は簡単には落ちませんでした。
武田軍は退却を決めますが、その途中で村上軍の追撃を受け、大きな損害を出します。
この敗戦は、のちに砥石崩れと呼ばれます。
信玄は上田原に続いて、再び村上義清に苦しめられることになりました。
ただし、失敗のままで終わったわけではありません。
翌年、武田方は砥石城を手に入れます。
その攻略には、のちに真田氏の基礎を築く真田幸隆の働きが大きかったと伝わります。
ここが重要
上田原と砥石崩れは、信玄が苦戦したことを示す代表的な出来事です。 しかし信玄は、敗北の経験を経ても信濃侵攻を止めず、翌年には砥石城を手に入れて流れを立て直しました。

村上義清については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
村上義清は、上田原の戦いと砥石崩れで武田信玄を苦しめた、信濃の有力武将です。信玄の信濃侵攻を考えるうえで、避けて通れない重要人物でした。
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塩尻峠合戦と小笠原氏の後退|松本平を手に入れる
この章のポイント
- 上田原で敗れた後も、信玄は信濃侵攻を止めなかった
- 塩尻峠で小笠原長時を破り、筑摩方面へ進出した
- 1550年、林城の自落によって松本平を掌握した
上田原で村上義清に敗れた信玄ですが、信濃侵攻そのものを止めたわけではありません。
次に大きな転機となったのが、塩尻峠での戦いです。
信玄は、信濃守護家として大きな影響力を持っていた小笠原長時と対決します。
小笠原氏は、現在の松本周辺である筑摩・府中を本拠とする有力者でした。
信玄にとって小笠原氏を退けることは、信濃の中央部へ進出するために欠かせない課題でした。
天文17年(1548年)の塩尻峠での戦いで、武田軍は小笠原軍を破ります。
その後も武田軍は筑摩方面への攻勢を続け、天文19年(1550年)には小笠原氏の本拠である林城が自落しました。
これによって、信玄は松本平をほぼ支配下に置くことになります。
信玄は松本平の支配拠点として、深志城を整備しました。
深志城は、のちの松本城につながる城です。
つまり信濃侵攻は、戦で勝つだけでは終わりません。
信玄は城を整え、支配の拠点を作り、手に入れた地域を武田領として定着させていきました。
松本平の掌握は、武田家が信濃の中央部へ勢力を伸ばしたことを示す大きな成果でした。
小笠原長時がどのような人物だったのか、武田家に敗れたあとの動きも含めて、こちらの記事で整理しています。
小笠原長時とは何者か?武田信玄に敗れた信濃守護のその後
信濃侵攻は「攻める」だけでは終わらなかった
この章のポイント
- 信玄は侵攻後、城や拠点を整えて支配を定着させた
- 諏訪や松本平では、武田氏の支配拠点が置かれた
- 法や制度を整えることも、広い領国を治めるうえで重要だった
信濃侵攻を考えるとき、合戦ばかりに目が向きがちです。
しかし、信玄が本当に目指していたのは、城を落とすことだけではありません。
手に入れた地域を、武田家の領国として安定させることが重要でした。
諏訪では、武田氏が支配を進めるための拠点が置かれました。
松本平では、深志城が支配の中心として整備されていきます。
また、信玄の時代には「甲州法度之次第」と呼ばれる法度も整えられ、領内の土地争い、家臣同士の問題、犯罪などに対するルールが示されていきました。
領土が広がれば、戦だけでは国を治められません。
地域ごとの争いをどう裁くのか。
家臣や国衆をどうまとめるのか。
手に入れた土地をどう安定させるのか。
こうした仕組みを整えることが、戦国大名にとって重要でした。
信玄が信濃で勢力を広げられた背景には、軍事力だけでなく、侵攻後の支配を定着させる力もあったといえます。
| 支配を定着させるための動き | 内容 |
|---|---|
| 城を攻略する | 各地の軍事拠点を押さえ、敵対勢力を弱める |
| 拠点を整える | 諏訪や深志城などを、武田支配の拠点として活用する |
| 家臣や国衆を取り込む | 現地の有力者を味方にし、地域を安定させる |
| 法度や制度を整える | 土地争いや家臣間の問題に対応し、領国支配を進める |
つまり
信濃侵攻は、城を落とすための戦いではありませんでした。 信玄は城・家臣・制度を組み合わせ、手に入れた地域を武田家の領国として治めていったのです。

信玄の信濃支配と領国経営については、こちらの記事で詳しく紹介しています。 blog.castle-journey.com
信濃侵攻はなぜ川中島の戦いにつながったのか
この章のポイント
- 信玄の進出によって、村上義清ら信濃の有力者は追い詰められた
- 村上義清は越後の長尾景虎を頼った
- 信濃をめぐる争いが、武田信玄と上杉謙信の対立へ発展した
砥石城を手に入れた後も、信玄は信濃で勢力を広げ続けます。
やがて村上義清は本拠である葛尾城を失い、越後へ逃れることになります。
村上義清や高梨氏など、武田軍に圧迫された信濃の有力者たちは、越後の長尾景虎を頼りました。
長尾景虎は、のちに上杉謙信として知られる人物です。
信濃の国衆から救援を求められた上杉謙信は、信濃へ出兵します。
こうして、信濃を舞台に武田信玄と上杉謙信が対立することになります。
これが、川中島の戦いの始まりです。
川中島の戦いというと、武田信玄と上杉謙信という二人の名将の対決に目が向きます。
しかし、その背景には、信濃各地で追われた国衆たちの存在がありました。
信濃侵攻が進んだからこそ、村上義清らは越後へ助けを求めた。
越後の上杉謙信が信濃へ出兵したからこそ、武田と上杉の対決が始まった。
つまり、川中島の戦いは信濃侵攻の延長線上に起きた戦いだったのです。
ここが重要
信濃侵攻は、武田家の領土を広げただけではありません。 武田信玄と上杉謙信という、戦国時代を代表する二人の対決を生み出した出来事でもありました。

まとめ|信濃侵攻は武田信玄を大大名へ押し上げた
今回は、武田信玄の信濃侵攻について紹介しました。
信玄は父・信虎を追放して当主となった後、まず諏訪を攻略し、上伊那、佐久、小県、筑摩へと勢力を広げていきました。
その過程では、諏訪頼重を滅ぼし、小笠原長時を退け、松本平を支配下に置いています。
一方で、村上義清との戦いでは、上田原の戦いと砥石崩れという大きな苦戦も経験しました。
それでも信玄は、城や地域の支配を整え、真田幸隆のような家臣の力も生かしながら、信濃での勢力を少しずつ広げていきます。
信濃侵攻は、武田信玄が甲斐の戦国大名から、東国屈指の大勢力へ成長していくための大きな転換点でした。
そして信濃への進出は、村上義清らを越後へ追いやり、上杉謙信との川中島の戦いへつながっていきます。
武田信玄の生涯を知るうえで、信濃侵攻は欠かせない出来事です。
諏訪、上田、松本、坂城など、信濃各地の城や古戦場を歩くと、信玄がどのように勢力を広げ、どこで苦しんだのかをより立体的に感じられるはずです。
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