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塩尻峠の戦いとは|武田信玄が小笠原長時を破った信濃侵攻の転機

塩尻峠の戦い

塩尻峠しおじりとうげの戦いは、天文17年(1548)に、武田晴信、のちの武田信玄と、信濃国の有力武将・小笠原長時との間で起きた合戦です。

武田信玄といえば、上杉謙信と争った「川中島の戦い」が有名です。

しかし、信玄が信濃へ勢力を広げていく流れを見ると、その前段階で重要になるのが、諏訪氏すわし・小笠原氏・村上氏など、信濃の有力勢力との戦いです。

なかでも塩尻峠の戦いは、武田氏が信濃中部へ進出するうえで大きな転機となった一戦でした。

今回は、塩尻峠の戦いの概要を押さえながら、小笠原長時という人物、武田晴信の信濃進出、そしてこの戦いがその後の信濃情勢に与えた影響まで、流れに沿って紹介します。

塩尻峠の戦いとは

まずは、塩尻峠の戦いの基本情報を整理しておきます。

項目 内容
合戦名 塩尻峠の戦い
時期 天文17年(1548)7月19日
主な対立 武田晴信 vs 小笠原長時
戦場 現在の長野県塩尻市周辺、塩尻峠・勝弦峠かっつるとうげ一帯
結果 武田方の勝利
意味 武田氏が信濃中部へ進出するきっかけになった

ざっくり言うと、塩尻峠の戦いは、上田原の戦いで敗れた武田晴信が、信濃勢の反撃を退け、ふたたび信濃攻略を進めるきっかけになった戦いです。

この少し前、武田晴信は上田原うえだはらの戦いで、信濃の有力武将・村上義清むらかみよしきよに敗れていました。

武田方にとっては大きな痛手です。

一方、信濃の武将たちから見れば、

今なら武田を押し返せるのではないか

という状況だったと考えられます。

そこで小笠原長時を中心とする信濃勢が動き、武田方と衝突したのが塩尻峠の戦いでした。

塩尻峠の戦いの流れをまとめた図解。上田原の敗戦から小笠原長時の反撃、武田方の勝利、信濃中部進出までを示している

この流れを図で見ると、塩尻峠の戦いが単独の合戦ではなく、武田氏の信濃攻略の流れの中で重要な転機だったことがわかりやすくなります。

つまり

塩尻峠の戦いは、武田晴信が上田原の敗戦から立て直し、信濃攻略を再び進めるきっかけになった合戦です。

塩尻峠の戦いで武田晴信と戦った小笠原長時については、こちらの記事で詳しく整理しています。
小笠原長時とは何者か?武田信玄に敗れた信濃守護のその後

小笠原長時とはどんな人物?

この章のポイント

小笠原長時は、信濃守護家の流れをくむ名門・小笠原氏の当主です。 武田晴信にとっては、信濃中部へ進出するうえで避けて通れない相手でした。

小笠原長時は、信濃国の名門・小笠原氏の当主です。

小笠原氏は、室町時代から信濃守護をつとめた家柄で、信濃の中でも格式ある存在でした。

長時の本拠は、現在の長野県松本市にある林城はやしじょうです。

林城は、松本平の東側に築かれた山城で、小笠原氏の戦国期の本拠として知られています。

小笠原長時の基本情報をまとめると、次のようになります。

項目 内容
名前 小笠原長時
家柄 信濃守護をつとめた小笠原氏の当主
本拠 林城
主な勢力圏 松本平周辺
武田氏との関係 信濃侵攻を進める武田晴信と対立
塩尻峠の戦いでの立場 武田晴信と戦い、敗れる

ここで大事なのは、小笠原長時が単なる「信玄に敗れた武将」ではないことです。

小笠原氏は、信濃守護家としての由緒を持ち、松本平周辺に勢力を持っていました。

つまり、小笠原長時は、武田晴信が信濃へ進出していくうえで避けて通れない相手だったのです。

なぜ武田晴信は信濃へ進出したのか

この章のポイント

武田晴信は、甲斐を固めたあと、まず信濃方面へ勢力を広げていきました。 その過程で、諏訪氏・小笠原氏・村上氏といった信濃の有力勢力とぶつかっていきます。

武田晴信は、父・武田信虎たけだのぶとらを駿河へ追放したのち、甲斐の当主として勢力を固めていきました。

甲斐は山に囲まれた国で、周囲には信濃・駿河・相模・武蔵などの勢力がありました。

その中で、晴信がまず大きく進出していった方面が信濃です。

信濃は広く、諏訪氏、小笠原氏、村上氏など、地域ごとに有力勢力が分立していました。

武田晴信はまず諏訪方面へ進出し、その後さらに信濃中部へ勢力を伸ばしていきます。

その過程でぶつかったのが、松本平を本拠とする小笠原長時でした。

武田晴信の信濃進出の流れをまとめた図解。甲斐から諏訪、信濃中部、塩尻峠、松本平方面へ進んでいく流れを示している

この流れを図で見ると、塩尻峠の戦いが単独の合戦ではなく、信濃攻略の中の重要な節目だったことがわかりやすくなります。

塩尻峠はどこにあり、なぜ重要だったのか

塩尻峠の戦いを理解するうえで、地理の把握はとても大事です。

塩尻峠は、現在の長野県塩尻市付近にあり、諏訪方面と松本平方面を結ぶ交通の要地でした。

武田方から見ると、甲斐・諏訪方面から松本平へ進むうえで押さえたい場所だったといえます。

また、小笠原長時の本拠である林城や、のちに武田氏の拠点となる深志城ふかしじょうとも関わる位置にあります。

塩尻峠がなぜ重要だったのかを示す位置関係図。武田氏の本拠である甲斐、諏訪方面、塩尻峠、松本平、小笠原長時の本拠である林城、のちの武田方拠点となる深志城の関係を描いている

つまり

塩尻峠は、諏訪方面から松本平へ進むための重要な通り道でした。 ここを押さえることは、武田氏が信濃中部へ進出するうえで大きな意味を持っていたのです。

上田原の敗戦と、信濃勢の反撃

塩尻峠の戦いを理解するうえで欠かせないのが、その前に起きた上田原の戦いです。

天文17年(1548)2月、武田晴信は村上義清と戦い、敗北しました。

武田軍にとって、この敗戦はかなり大きな打撃だったはずです。

なぜなら、ここまで進めてきた信濃攻略の勢いを、村上義清によって止められたからです。

この武田方の敗戦を見て、信濃の武将たちは反撃の動きを見せます。

その中心となったのが、小笠原長時でした。

小笠原長時は兵を率いて下諏訪しもすわ方面へ攻め込み、武田方と対峙します。

こうして起きたのが、塩尻峠の戦いです。

つまり

塩尻峠の戦いは、武田晴信が上田原の敗戦から立て直せるかどうかを問われた戦いでもありました。

塩尻峠の戦いの流れ

塩尻峠の戦いは、現在の塩尻峠・勝弦峠一帯で行われたとされています。

当初、小笠原勢は優勢だったとも伝わります。

上田原で武田晴信が敗れた直後であり、信濃勢にとっては勢いに乗る好機だったのでしょう。

ただし、戦いは最終的に武田方の勝利に終わりました。

流れを整理すると、次のようになります。

流れ 内容
1 上田原の戦いで武田晴信が敗れ、武田方に動揺が広がる
2 小笠原長時ら信濃勢が、武田方の弱体化を見て反撃に動く
3 小笠原勢が下諏訪方面へ進出し、武田方と対峙する
4 塩尻峠・勝弦峠周辺で両軍が衝突する
5 武田方が勝利し、小笠原長時の勢力は後退する

この勝利によって、武田晴信は上田原で受けた打撃から立て直し、信濃攻略の足がかりを固めました。

塩尻峠の戦いは、単に一つの合戦に勝っただけではありません。

武田氏が信濃中部へ進むうえで、重要な意味を持つ勝利だったのです。

勝敗を分けたポイント

塩尻峠の戦いで注目したいのは、武田晴信が上田原で敗れた直後にもかかわらず、すばやく反撃に成功している点です。

普通に考えれば、大きな敗戦のあとは軍勢の立て直しに時間がかかります。

家臣の士気も下がり、周辺勢力からも「武田は弱った」と見られやすくなります。

実際、小笠原長時ら信濃勢は、その隙を突いて動いたと考えられます。

それでも晴信は、塩尻峠の戦いで勝利しました。

この戦いで見えてくるポイントは、次の3つです。

ポイント 内容
立て直しの早さ 上田原の敗戦後、武田晴信は短期間で体勢を立て直した
信濃勢への対応 小笠原長時らの反撃を受け止め、逆に勝利へつなげた
信濃攻略の継続 大きな敗戦を経験しても、信濃攻略をあきらめなかった

ここに、武田晴信の強さが表れています。

敗戦してもそのまま崩れず、すぐに形勢を立て直す。

この粘り強さが、のちに「信玄」と呼ばれる武田晴信の大きな特徴だったのかもしれません。

小笠原長時はその後どうなった?

塩尻峠の戦いで敗れた小笠原長時は、その後も武田晴信と対立を続けます。

しかし、武田氏の信濃侵攻は止まりませんでした。

天文19年(1550)には、武田晴信が松本平方面へ進出し、小笠原長時は本拠である林城を離れることになります。

小笠原長時のその後を整理すると、次のようになります。

時期 小笠原長時の動き
天文17年(1548) 塩尻峠の戦いで武田晴信に敗れる
天文19年(1550) 武田氏が松本平方面へ進出する
その後 小笠原長時は本拠の林城を離れる
以後 各地の有力者を頼り、再起を目指す
武田氏滅亡後 小笠原氏は旧領回復の動きの中で、再び松本の歴史に関わる

これは、小笠原氏にとって信濃での支配基盤を失う大きな転機でした。

ただし、小笠原氏そのものが完全に消えたわけではありません。

のちに武田氏が滅亡すると、小笠原氏は旧領回復の動きの中で再び松本の歴史に関わっていきます。

小笠原長時のその後

塩尻峠の戦いが信濃攻略に与えた影響

この章のポイント

塩尻峠の戦いで小笠原長時を破ったことで、武田氏は松本平方面へ進出しやすくなりました。 この勝利は、のちの北信濃進出や川中島方面の戦いにもつながっていきます。

塩尻峠の戦いの結果、武田晴信は信濃攻略の流れを再び自分の側へ引き寄せました。

特に大きな影響は、次の3つです。

  • 上田原の敗戦後、武田方が立て直しに成功した
  • 小笠原長時が敗れ、小笠原氏の勢力が後退した
  • 武田氏が松本平方面へ進出しやすくなった

小笠原氏は、信濃守護家としての格式を持つ名門でした。

その小笠原長時を破ったことで、武田晴信は信濃中部への圧力を強めることができました。

その後、武田氏は松本平方面へ進出し、深志城などを拠点としていきます。

信濃をめぐる争いは、やがて北信濃きたしなのへと広がり、村上義清や上杉謙信との対立へつながっていきます。

つまり塩尻峠の戦いは、川中島の戦いへ向かう前段階としても重要な一戦だったといえます。

まとめ

今回は、武田晴信と小笠原長時が戦った塩尻峠の戦いを紹介しました。

最後に、ポイントを整理します。

ポイント 内容
誰と誰の戦いか 武田晴信と小笠原長時の戦い
直前の出来事 武田晴信は上田原の戦いで村上義清に敗れていた
結果 武田方が勝利した
その後の影響 小笠原氏が後退し、武田氏が信濃中部へ進出しやすくなった
この戦いの重要性 武田信玄の信濃侵攻の転機となった

塩尻峠の戦いは、川中島の戦いほど有名ではないかもしれません。

しかし、武田信玄が信濃へ勢力を広げていく流れを知るうえでは、かなり重要な一戦です。

小笠原長時という信濃の名門を破ったことで、武田氏は松本平方面へ進出し、やがて北信濃をめぐる戦いへと向かっていきます。

信玄の生涯をより深く知りたい方は、川中島だけでなく、その前段階にある諏訪侵攻・上田原の戦い・塩尻峠の戦いにも注目してみると、武田氏の信濃攻略がぐっと立体的に見えてくるはずです。

あわせて読みたい

武田信玄の生涯については、こちらの記事で紹介しています。

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武田信玄の信濃侵攻については、こちらの記事で紹介しています。 blog.castle-journey.com

上田原の戦いについては、こちらの記事で紹介しています。

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また、武田氏の本拠である武田氏館についてはこちらで紹介しています。

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