武田信玄の信濃侵攻を語るうえで、避けて通れない敗戦があります。
それが、1548年の上田原の戦いです。
上田原の戦いは、武田晴信、のちの武田信玄と、信濃の有力武将・村上義清が戦った合戦です。
この戦いで、武田軍は村上義清に敗れました。
しかも、ただ負けただけではありません。
武田方は板垣信方や甘利虎泰といった重臣を失い、信玄自身も負傷したと伝わります。
武田信玄といえば、戦上手の名将というイメージが強い人物です。
しかし、信濃侵攻の途中では、村上義清という強敵に大きく苦しめられていました。
上田原の戦いは、武田信玄の信濃侵攻が決して順調ではなかったことを示す重要な敗戦だったのです。
この記事では、上田原の戦いがなぜ起きたのか、戦いの流れ、武田信玄が敗れた理由、その後の信濃侵攻への影響まで、わかりやすく整理していきます。

- 上田原の戦いとは
- なぜ上田原の戦いは起きたのか
- 村上義清とはどんな相手だったのか
- 上田原の戦いの流れ
- 武田信玄はなぜ上田原で敗れたのか
- 板垣信方・甘利虎泰の討死が与えた影響
- 上田原の敗戦は信濃侵攻にどんな影響を与えたのか
- 上田原の戦いは砥石崩れへどうつながるのか
- 上田原の戦いをどう見るべきか
- まとめ|上田原の戦いは信玄が信濃で味わった大きな敗戦だった
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上田原の戦いとは
この章のポイント
- 上田原の戦いは1548年に起きた
- 武田晴信と村上義清が戦った合戦
- 武田軍が敗れ、重臣を失った重要な敗戦だった
上田原の戦いは、1548年に起きた合戦です。
戦ったのは、甲斐の武田晴信と、信濃の村上義清でした。
現在は「武田信玄」としてよく知られていますが、この時点ではまだ出家前なので、名前としては武田晴信の時期です。
ただし、この記事ではわかりやすさを優先して、必要に応じて「信玄」とも表記します。
上田原の戦いを簡単に整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 年 | 1548年 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 場所 | 信濃国 上田原周辺 |
| 武田方 | 武田晴信 |
| 村上方 | 村上義清 |
| 結果 | 村上義清が武田軍を破る |
| 武田方の損害 | 板垣信方・甘利虎泰ら重臣が討死 |
| 意味 | 武田信玄の信濃侵攻を大きく停滞させた |
上田原の戦いは、武田信玄にとって大きな敗戦でした。
特に重要なのは、武田軍が単に戦場で敗れただけでなく、家中を支える重臣まで失ったことです。
この敗北によって、信玄の信濃侵攻は一気に厳しい局面を迎えることになります。
ここが重要
上田原の戦いは、武田信玄が村上義清に敗れた合戦です。 信玄が信濃で最初から勝ち続けたわけではないことを示す、重要な出来事でした。
なぜ上田原の戦いは起きたのか
この章のポイント
- 武田信玄は信濃へ勢力を広げようとしていた
- 村上義清は信濃で勢力を持つ有力武将だった
- 両者の勢力圏がぶつかり、上田原の戦いへつながった
上田原の戦いが起きた背景には、武田信玄の信濃侵攻があります。
武田晴信は、1541年に父・信虎を駿河へ追放し、武田家の当主となりました。
その翌年には諏訪へ侵攻し、信濃への進出を本格化させていきます。
武田家にとって、信濃国は甲斐の北西に広がる重要な地域でした。
信濃を押さえることができれば、甲斐の安全を高めるだけでなく、領国を大きく広げることにもつながります。
しかし、信濃は一人の大名が全体を支配していた国ではありません。
諏訪氏、村上氏、小笠原氏、高梨氏など、各地に有力な国衆や武将が分かれて存在していました。
その中で、武田信玄の前に大きく立ちはだかったのが村上義清です。
村上義清は、葛尾城を本拠とし、小県・埴科方面に勢力を持っていました。
武田方が諏訪や佐久方面からさらに北へ進もうとすると、村上氏の勢力圏とぶつかることになります。
両者の立場を整理すると、次のようになります。
| 立場 | 状況 |
|---|---|
| 武田晴信 | 信濃へ進出し、領国を広げたい |
| 村上義清 | 自分の勢力圏を守りたい |
| 信濃の状況 | 各地の有力勢力が分立していた |
| 対立の原因 | 武田氏の進出が村上氏の領地を脅かした |
つまり、上田原の戦いは、突然起きた偶然の合戦ではありません。
武田信玄の信濃侵攻と、村上義清の防衛がぶつかった結果として起きた戦いだったのです。

村上義清とはどんな相手だったのか
この章のポイント
- 村上義清は信濃の有力武将だった
- 武田信玄を上田原の戦いと砥石崩れで苦しめた
- 信濃侵攻を考えるうえで欠かせない強敵だった
上田原の戦いを理解するには、相手である村上義清についても知っておく必要があります。
村上義清は、信濃国の北部から東部にかけて勢力を持った武将です。
本拠は葛尾城で、周辺地域に強い影響力を持っていました。
武田信玄が信濃侵攻を進めると、村上義清はその前に立ちはだかります。
村上義清のすごいところは、信玄を一度だけではなく、複数回苦しめたことです。
代表的な出来事を整理すると、次のようになります。
| 出来事 | 年 | 内容 |
|---|---|---|
| 上田原の戦い | 1548年 | 村上義清が武田軍を破る |
| 砥石崩れ | 1550年 | 武田軍が砥石城攻略に失敗し、大きな損害を受ける |
| 越後への逃亡 | その後 | 村上義清が長尾景虎を頼り、川中島の戦いへつながる |
村上義清は、最終的には武田氏に押されて本拠を失います。
しかし、その過程で武田信玄の信濃侵攻を大きく停滞させました。
その意味で、村上義清は単なる敗者ではありません。
武田信玄をもっとも苦しめた信濃の強敵の一人だったのです。
村上義清という人物については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
上田原の戦いや砥石崩れで武田信玄を苦しめた理由、最後に越後の長尾景虎を頼って川中島の戦いへつながる流れまで整理しています。
上田原の戦いの流れ
この章のポイント
- 武田軍は村上義清の勢力圏へ進出した
- 上田原で両軍が衝突した
- 武田軍は村上軍に敗れ、重臣を失った
ここからは、上田原の戦いの流れを見ていきます。
上田原の戦いは、武田晴信が信濃へ進出する中で起きました。
武田軍は、村上義清の勢力圏へ圧力をかけていきます。
それに対して、村上義清も自らの領地と拠点を守るために迎え撃ちました。
両軍が衝突したのが、上田原周辺でした。
戦いの細かな経過には諸説がありますが、結果として武田軍は大きな損害を受けます。
特に大きかったのが、重臣の討死です。
板垣信方や甘利虎泰といった重要な家臣が、この戦いで命を落としました。
また、信玄自身も負傷したと伝わります。
流れを整理すると、次のようになります。
| 段階 | 出来事 |
|---|---|
| 1 | 武田晴信が信濃で勢力を広げる |
| 2 | 村上義清の勢力圏と衝突する |
| 3 | 上田原周辺で両軍が戦う |
| 4 | 村上義清が武田軍を破る |
| 5 | 板垣信方・甘利虎泰らが討死する |
| 6 | 武田軍の信濃侵攻が大きく停滞する |
上田原の戦いは、信玄にとって大きな痛手でした。
戦場で敗れただけでなく、家中の中心にいた重臣を失ったからです。
つまり、上田原の戦いは、武田軍が村上義清に敗れ、信濃侵攻の勢いを止められた合戦だったのです。
信玄はこの敗戦によって、信濃侵攻の難しさを思い知らされることになります。

武田信玄はなぜ上田原で敗れたのか
この章のポイント
- 村上義清は地元に根ざした有力武将だった
- 武田軍は信濃の地で苦戦した
- 重臣の討死が武田軍に大きな打撃を与えた
では、武田信玄はなぜ上田原の戦いで敗れたのでしょうか。
もちろん、合戦の詳しい展開には諸説があります。
しかし、大きく見ると、いくつかの理由が考えられます。
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 村上義清が強敵だった | 信濃に根ざした有力武将で、地域に基盤を持っていた |
| 武田軍が信濃で戦っていた | 甲斐から外へ出て戦う難しさがあった |
| 村上方が地形を生かせた | 信濃の地形や地域事情をよく知っていた |
| 武田方の重臣が討死した | 板垣信方・甘利虎泰らを失い、軍全体に大きな影響が出た |
| 信濃侵攻がまだ安定していなかった | 武田氏の支配が十分に定着していない地域での戦いだった |

まず大きいのは、村上義清が信濃に根ざした強敵だったことです。
村上義清は、地域の地形や勢力関係をよく理解していました。
外から進出してくる武田軍に対して、地元の強みを生かして戦うことができたと考えられます。
また、武田軍にとって信濃侵攻は簡単なものではありませんでした。
諏訪を押さえたからといって、信濃全体をすぐに支配できるわけではありません。
佐久、小県、筑摩、北信濃など、地域ごとに有力者が存在しており、それぞれの利害が絡み合っていました。
その中で村上義清と戦うことは、信玄にとって大きな試練でした。
さらに、重臣を失ったことも大きな痛手です。
板垣信方や甘利虎泰は、武田家を支える重要な家臣でした。
そのような人物を一度に失ったことは、戦場の敗北以上に重い意味を持ちます。
つまり、上田原の戦いでの敗北は、単なる戦術上の失敗だけではありません。
武田信玄が、信濃という複雑な地域を支配していく難しさに直面した敗戦だったのです。
板垣信方・甘利虎泰の討死が与えた影響
この章のポイント
- 板垣信方と甘利虎泰は、武田家の重要な重臣だった
- 上田原の戦いで二人を失ったことは大きな打撃だった
- 武田方は人材と信濃侵攻の勢いを同時に失った
上田原の戦いで特に大きかったのが、板垣信方と甘利虎泰の討死です。
板垣信方は、武田信虎の時代から武田家を支えた重臣の一人です。
甘利虎泰も、武田家中で重要な立場にあった人物でした。
このような重臣を失ったことは、武田軍にとって大きな損失です。
単に戦闘員を失ったというだけではありません。
戦の経験、家臣団への影響力、軍の統率力。
こうしたものを持つ重臣を失うことは、家そのものにとっても大きな痛手でした。
上田原の戦いで武田方が受けた打撃を整理すると、次のようになります。
| 失ったもの | 内容 |
|---|---|
| 重臣 | 板垣信方・甘利虎泰ら、武田家を支えた有力家臣を失った |
| 軍の統率力 | 経験ある重臣の討死により、軍の立て直しが必要になった |
| 信濃侵攻の勢い | 村上義清に敗れたことで、信濃侵攻が大きく停滞した |
| 無敵のイメージ | 信玄も信濃では苦戦していたことが明らかになった |
若い当主だった信玄にとって、経験豊かな重臣の存在は非常に重要だったはずです。
それを戦場で失ったことは、軍事的にも政治的にも重い意味を持ちました。
上田原の戦いは、単に一度の合戦に敗れた出来事ではありません。
武田家を支える人材と、信濃侵攻の勢いを同時に失った大きな敗戦だったのです。
上田原の敗戦は信濃侵攻にどんな影響を与えたのか
この章のポイント
- 上田原の敗戦で、武田軍の信濃侵攻は停滞した
- 村上義清の存在感は大きく高まった
- その後も信玄と義清の対立は続いた
上田原の敗戦は、武田信玄の信濃侵攻に大きな影響を与えました。
まず、武田軍の勢いが止まります。
それまで信濃へ進出していた武田氏にとって、村上義清に敗れたことは大きな挫折でした。
また、村上義清の存在感も高まりました。
武田信玄を破ったことで、村上義清は信濃の中でも強敵として知られる存在になります。
一方で、信玄はこの敗北で信濃侵攻をあきらめたわけではありません。
むしろ、その後も信濃への進出を続けていきます。
上田原の戦いの後、武田信玄は別方面でも戦いを進めながら、村上義清との対立を続けていきました。
上田原の戦いが与えた影響を整理すると、次のようになります。
| 影響 | 内容 |
|---|---|
| 武田軍の勢いが止まった | 信濃侵攻が一時的に停滞した |
| 重臣を失った | 板垣信方・甘利虎泰らを失った |
| 村上義清の存在感が高まった | 信玄を破った信濃の強敵として注目される |
| 信玄の課題が明確になった | 信濃支配の難しさを突きつけられた |
| 村上氏との対立が続いた | その後の砥石崩れへつながっていく |

上田原の戦いは、信玄にとって終わりではありませんでした。
むしろ、ここから信玄は信濃侵攻の難しさを知り、立て直しを図っていくことになります。
この意味で上田原の戦いは、若き信玄が大きな挫折を味わった戦いだったといえます。
上田原の戦いは砥石崩れへどうつながるのか
この章のポイント
- 上田原の戦いの後も、信玄と村上義清の対立は続いた
- 1550年、武田信玄は砥石城を攻めた
- しかし攻略に失敗し、砥石崩れへつながった
上田原の戦いで敗れた後も、武田信玄と村上義清の対立は続きました。
信玄にとって、村上義清をそのままにしておけば、信濃支配は安定しません。
一方の村上義清にとっても、武田氏の進出を防がなければ、自分の勢力圏を守ることはできません。
そのため、両者の争いは終わりませんでした。
そして1550年、武田信玄は村上方の重要拠点である砥石城を攻めます。
しかし、この攻撃はうまくいきませんでした。
武田軍は砥石城を攻略できず、退却時に大きな損害を受けます。
これが、砥石崩れです。
流れを整理すると、次のようになります。
| 流れ | 内容 |
|---|---|
| 1 | 上田原の戦いで武田軍が敗れる |
| 2 | 村上義清との対立が続く |
| 3 | 武田信玄が砥石城を攻める |
| 4 | 砥石城攻略に失敗する |
| 5 | 退却時に大きな損害を受ける |
| 6 | 砥石崩れとして知られる |
上田原の戦いと砥石崩れは、どちらも村上義清が武田信玄を苦しめた出来事です。
この二つを見ると、信玄の信濃侵攻がどれほど難しかったかがよくわかります。
つまり
上田原の戦いは、村上義清との対立の終わりではありませんでした。 その後の砥石崩れへ続く、信玄の苦戦の始まりでもあったのです。

砥石崩れと砥石城については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
1550年の砥石崩れでは、武田信玄が村上方の重要拠点だった砥石城の攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けました。上田原の戦いに続いて、信玄が村上義清に苦しめられた重要な出来事です。
上田原の戦いをどう見るべきか
この章のポイント
- 上田原の戦いは、信玄の大きな敗戦だった
- しかし、信玄の評価を下げるだけの出来事ではない
- 信玄の成長と信濃侵攻の難しさを示す戦いだった
上田原の戦いは、武田信玄にとって大きな敗戦でした。
そのため、「信玄が負けた戦い」として語られることが多いです。
もちろん、それは間違いではありません。
しかし、上田原の戦いを単なる失敗として見るだけでは、この出来事の意味を十分に理解できません。
この戦いから見えてくるのは、信濃侵攻の難しさです。
信玄は優れた戦国大名でしたが、信濃の有力者たちを簡単に従えることはできませんでした。
村上義清のような地元に根ざした武将がいたからこそ、武田軍は何度も苦しみました。
また、上田原の戦いは、若き信玄にとって大きな試練でもありました。
重臣を失い、信濃侵攻が停滞する。
それでも信玄は信濃進出をあきらめず、のちに勢力を広げていきます。
この意味で上田原の戦いは、信玄の弱さだけでなく、敗北から立て直していく武田信玄の姿を考えるうえでも重要です。
上田原の戦いをどう見るべきか、整理すると次のようになります。
| 見方 | 内容 |
|---|---|
| 信玄の敗戦 | 村上義清に敗れ、重臣を失った |
| 村上義清の強さ | 信濃に根ざした強敵として武田軍を破った |
| 信濃侵攻の難しさ | 武田氏が一方的に勝ち続けたわけではない |
| 信玄の試練 | 若き当主が大きな挫折を味わった |
| その後への伏線 | 砥石崩れや信濃支配の立て直しへつながる |
上田原の戦いは、武田信玄の栄光だけを追う記事では見落とされがちな出来事です。
しかし、この敗戦を知ることで、信玄の信濃侵攻がより立体的に見えてきます。
まとめ|上田原の戦いは信玄が信濃で味わった大きな敗戦だった
今回は、上田原の戦いについて紹介しました。
上田原の戦いは、1548年に武田晴信と村上義清が戦った合戦です。
この戦いで村上義清は武田軍を破り、武田方は板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失いました。
信玄自身も負傷したと伝わり、武田家にとって非常に大きな痛手となりました。
この記事のポイントを整理すると、以下の通りです。
- 上田原の戦いは1548年に起きた
- 武田晴信と村上義清が戦った
- 村上義清が武田軍を破った
- 武田方は板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失った
- 信玄の信濃侵攻は大きく停滞した
- この対立は、のちの砥石崩れへつながっていった
上田原の戦いは、信玄が信濃で味わった大きな敗北です。
しかし、それは信玄の価値を下げるだけの出来事ではありません。
むしろ、村上義清という強敵の存在や、信濃侵攻の難しさを知るうえで、とても重要な合戦でした。
武田信玄の信濃侵攻を理解するなら、上田原の戦いは必ず押さえておきたい出来事です。
あわせて読みたい
武田信玄の信濃侵攻全体については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
武田信玄を苦しめた村上義清については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
信濃侵攻の出発点となった諏訪侵攻については、こちらの記事で紹介しています。
上田原の戦いで村上義清に敗れた武田晴信は、その後、小笠原長時ら信濃勢の反撃を受けます。
しかし塩尻峠の戦いで武田方が勝利したことで、小笠原氏は後退し、武田氏は松本平方面へ進出しやすくなりました。
塩尻峠の戦いについて、詳しくはこちらの記事で紹介しています。
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砥石崩れと砥石城については、こちらの記事で詳しく紹介しています。 blog.castle-journey.com
武田信玄の生涯全体については、こちらの記事で紹介しています。