武田信玄の信濃侵攻を語るうえで、上田原の戦いと並んで重要な敗戦があります。
それが、1550年の砥石崩れです。
砥石崩れとは、武田信玄が砥石城を攻めたものの攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けた出来事です。
武田信玄といえば、戦上手の名将という印象が強い人物です。
しかし、信濃侵攻の途中では、村上義清という強敵に何度も苦しめられていました。
1548年の上田原の戦いでは村上義清に敗れ、板垣信方・甘利虎泰ら重臣を失います。
その後も村上氏との対立は続き、1550年に武田信玄は村上方の重要拠点である砥石城を攻めました。
しかし、この攻撃も失敗に終わります。
しかも、退却時に大きな損害を受けたため、この出来事は「砥石崩れ」と呼ばれるようになりました。
砥石崩れは、武田信玄の信濃侵攻が決して順調ではなかったことを示す重要な敗戦です。
一方で、この敗戦の後、武田方は真田幸隆の働きによって砥石城を攻略したとされます。
つまり砥石崩れは、信玄の失敗であると同時に、武田方がどのように巻き返していったのかを考えるうえでも重要な出来事なのです。
この記事では、砥石崩れとは何か、砥石城はどんな城だったのか、武田信玄はなぜ攻略に失敗したのか、そしてその後の信濃侵攻にどのような影響を与えたのかを、わかりやすく整理していきます。

- 砥石崩れとは
- 砥石城とはどんな城だったのか
- なぜ武田信玄は砥石城を攻めたのか
- 砥石崩れの流れ
- 武田信玄はなぜ砥石城攻略に失敗したのか
- 村上義清にとって砥石崩れは何を意味したのか
- 真田幸隆は砥石城攻略にどう関わったのか
- 砥石崩れは信玄の信濃侵攻にどんな影響を与えたのか
- 砥石崩れをどう見るべきか
- まとめ|砥石崩れは信玄の敗戦であり、武田方の巻き返しへの転換点だった
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砥石崩れとは
この章のポイント
- 砥石崩れは1550年に起きた
- 武田信玄が砥石城攻略に失敗した出来事
- 退却時に大きな損害を受け、信濃侵攻に打撃を与えた
砥石崩れとは、1550年に起きた武田信玄の敗戦です。
武田信玄は、村上義清方の重要拠点だった砥石城を攻めました。
しかし、砥石城を攻略することはできませんでした。
武田軍は攻めあぐね、最終的に撤退することになります。
さらに退却時、武田軍は村上方の追撃を受け、大きな損害を出したとされます。
この一連の出来事が、砥石崩れです。
基本情報を整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出来事 | 砥石崩れ |
| 年 | 1550年 |
| 攻めた側 | 武田信玄 |
| 守った側 | 村上義清方 |
| 舞台 | 砥石城 |
| 結果 | 武田軍が攻略に失敗 |
| 特徴 | 退却時に大きな損害を受けた |
| 意味 | 信玄の信濃侵攻を停滞させた敗戦 |
砥石崩れは、単に「城攻めに失敗した」というだけの出来事ではありません。
1548年の上田原の戦いに続いて、武田信玄が村上義清に苦しめられた出来事でした。
つまり、砥石崩れは、村上義清が武田信玄の信濃侵攻を大きく食い止めたことを示す敗戦だったのです。
砥石城とはどんな城だったのか
この章のポイント
- 砥石城は村上方の重要拠点だった
- 山城として守りやすい立地にあった
- 武田信玄にとって、攻略しなければならない城だった
砥石崩れを理解するには、まず砥石城がどのような城だったのかを知る必要があります。
砥石城は、信濃国の小県方面にあった山城です。
現在の長野県上田市周辺に位置する城跡として知られています。
表記は「砥石城」と書かれることが多いですが、「戸石城」と表記されることもあります。
砥石城は、村上義清の勢力にとって重要な拠点でした。
武田信玄が信濃へ勢力を広げていくうえで、この城をそのままにしておくことはできません。
なぜなら、砥石城が村上方の手にある限り、武田方の信濃支配は安定しにくかったからです。
砥石城の特徴を簡単に整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 城名 | 砥石城 |
| 別表記 | 戸石城 |
| 所在 | 信濃国小県方面 |
| 現在地 | 長野県上田市周辺 |
| 城の種類 | 山城 |
| 関係する武将 | 村上義清、武田信玄、真田幸隆 |
| 重要性 | 村上方の重要拠点であり、武田方にとって攻略目標となった |
砥石城は、平地にある館のような城ではありません。
山城であるため、攻める側にとっては進軍しにくく、守る側にとっては地形を生かしやすい城でした。
武田軍が砥石城を攻めるには、城の構造だけでなく、周辺の地形や村上方の抵抗も乗り越える必要がありました。
このような条件が重なったことが、砥石城攻略を難しくしたと考えられます。

なぜ武田信玄は砥石城を攻めたのか
この章のポイント
- 上田原の戦いの後も、武田信玄と村上義清の対立は続いた
- 砥石城は村上方の重要拠点だった
- 信濃支配を進めるため、信玄は砥石城を攻略する必要があった
武田信玄が砥石城を攻めた背景には、村上義清との対立がありました。
1548年の上田原の戦いで、武田軍は村上義清に敗れます。
この敗戦によって、武田信玄の信濃侵攻は大きく停滞しました。
しかし、信玄は信濃進出をあきらめたわけではありません。
むしろ、信濃を押さえるためには、村上義清との対立を避けて通れなくなっていきました。
その中で重要になったのが砥石城です。
砥石城は、村上方の拠点として、武田方の進出を妨げる存在でした。
武田信玄にとって、砥石城を攻略することは、単に一つの城を落とすことではありません。
村上義清の勢力を削り、信濃侵攻を再び前に進めるための重要な一手だったのです。
両者の立場を整理すると、次のようになります。
| 立場 | 状況 |
|---|---|
| 武田信玄 | 信濃侵攻を進めたい |
| 村上義清 | 自分の勢力圏を守りたい |
| 砥石城 | 村上方の重要拠点 |
| 武田方の狙い | 砥石城を落として村上氏の勢力を削る |
| 村上方の狙い | 砥石城を守り、武田氏の進出を防ぐ |
つまり、砥石城攻めは、上田原の戦いの延長線上にある出来事でした。
上田原で敗れてもなお信濃侵攻を進めようとする武田信玄と、それを防ごうとする村上義清。
この対立が、砥石城攻めへとつながっていったのです。
砥石崩れの流れ
この章のポイント
- 武田信玄は1550年に砥石城を攻めた
- しかし攻略に失敗した
- 退却時に大きな損害を受け、砥石崩れと呼ばれるようになった
ここからは、砥石崩れの流れを見ていきます。
1550年、武田信玄は砥石城を攻めます。
目的は、村上方の重要拠点を攻略し、信濃侵攻を前に進めることでした。
しかし、砥石城攻略は簡単ではありませんでした。
城は守りに適した立地にあり、村上方も抵抗します。
武田軍は砥石城を攻めますが、攻略に失敗します。
そして撤退することになります。
問題は、その退却時でした。
武田軍は退却の途中で大きな損害を受けたとされます。
このため、砥石城攻めの失敗は「砥石崩れ」と呼ばれるようになりました。
流れを整理すると、次のようになります。
| 流れ | 内容 |
|---|---|
| 1 | 武田信玄が砥石城を攻める |
| 2 | 村上方が砥石城を守る |
| 3 | 武田軍が攻略に苦戦する |
| 4 | 武田軍が砥石城攻略に失敗する |
| 5 | 武田軍が撤退する |
| 6 | 退却時に大きな損害を受ける |
| 7 | 砥石崩れとして知られる |
砥石崩れで重要なのは、武田軍が城を落とせなかっただけではない点です。
退却時に損害を受けたことで、敗戦の印象はさらに大きくなりました。
武田信玄にとって、砥石崩れは上田原の戦いに続く大きな痛手だったのです。

武田信玄はなぜ砥石城攻略に失敗したのか
この章のポイント
- 砥石城は攻めにくい山城だった
- 村上方は地元の地形や拠点を生かして抵抗した
- 武田方にとって、信濃攻略はまだ安定していなかった
では、なぜ武田信玄は砥石城攻略に失敗したのでしょうか。
もちろん、詳しい戦いの経過には諸説があります。
ただ、大きく見ると、いくつかの理由が考えられます。
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 砥石城が攻めにくかった | 山城であり、守る側が地形を生かしやすかった |
| 村上方が強く抵抗した | 村上義清の勢力圏を守る重要拠点だった |
| 武田軍は敵地で戦っていた | 甲斐から信濃へ進出する外征だった |
| 退却時に追撃を受けた | 城攻めの失敗だけでなく、撤退時の損害が大きかった |
| 信濃支配がまだ不安定だった | 武田氏の支配が十分に定着していない地域での戦いだった |
まず大きいのは、砥石城そのものが攻めにくい城だったことです。
山城は、攻める側にとって不利になりやすい場所です。
登るだけでも大変ですし、守る側は高低差や地形を利用できます。
また、砥石城は村上方にとって重要な拠点でした。
そのため、村上方も簡単には明け渡せません。
武田軍にとっては、ただ城を攻めるだけでなく、村上氏の勢力圏そのものに踏み込む戦いでもありました。
さらに、武田信玄の信濃支配はまだ十分に安定していませんでした。
諏訪、佐久、小県、北信濃と、信濃各地にはさまざまな勢力が存在していました。
その中で村上義清の拠点を攻めることは、信玄にとって大きなリスクを伴う戦いだったのです。
つまり、砥石崩れは、砥石城の守りの強さと、村上義清の抵抗、そして信濃支配の難しさが重なった敗戦だったといえます。

村上義清にとって砥石崩れは何を意味したのか
この章のポイント
- 村上義清は上田原に続いて武田信玄を苦しめた
- 砥石崩れによって、村上義清の存在感はさらに高まった
- しかし、その後は武田方の巻き返しを受けることになる
砥石崩れは、村上義清にとって大きな意味を持つ出来事でした。
村上義清は、すでに上田原の戦いで武田軍を破っていました。
そして砥石崩れでも、武田信玄を再び苦しめることになります。
この二つの出来事を見ると、村上義清が信玄にとってどれほど大きな壁だったかがよくわかります。
整理すると、次のようになります。
| 出来事 | 年 | 村上義清の位置づけ |
|---|---|---|
| 上田原の戦い | 1548年 | 武田軍を破り、重臣を討ち取る |
| 砥石崩れ | 1550年 | 砥石城攻略を失敗させ、武田軍に損害を与える |
| その後 | 1550年代 | 武田方の巻き返しを受け、勢力を失っていく |
村上義清は、武田信玄を一度だけ苦しめた相手ではありません。
上田原の戦いと砥石崩れによって、信玄の信濃侵攻を大きく停滞させました。
その意味で、村上義清は武田信玄の信濃侵攻に立ちはだかった最大級の強敵だったといえます。
ただし、村上義清の優勢がずっと続いたわけではありません。
砥石崩れの後、武田方は別の形で巻き返していきます。
その中心にいたとされるのが、真田幸隆でした。
真田幸隆は砥石城攻略にどう関わったのか
この章のポイント
- 砥石崩れの後、武田方は砥石城攻略に成功したとされる
- その時に活躍したのが真田幸隆と伝わる
- 正面攻撃ではなく、調略による攻略だったとされる
砥石崩れでは、武田信玄は砥石城攻略に失敗しました。
しかし、砥石城はその後、武田方の手に落ちることになります。
この時に活躍したとされるのが、真田幸隆です。
真田幸隆は、のちの真田昌幸の父であり、真田信繁、いわゆる真田幸村の祖父にあたる人物です。
真田氏といえば、大坂の陣の真田信繁が有名ですが、戦国期の真田氏が大きく存在感を高めていくうえで、真田幸隆の時代も重要です。
砥石城攻略において、真田幸隆は正面から大軍で攻め落としたのではなく、調略によって城を落としたとされます。
ここが非常に面白いところです。
信玄自身が力攻めで失敗した砥石城を、真田幸隆は別の方法で攻略したと伝わるのです。
武田信玄の砥石城攻めと、その後の真田幸隆の働きを整理すると、次のようになります。
| 見方 | 武田信玄の砥石城攻め | 真田幸隆の働き |
|---|---|---|
| 方法 | 正面から攻略を試みた | 調略によって攻略したとされる |
| 結果 | 攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けた | 砥石城を武田方の手に入れることにつながった |
| 歴史的な意味 | 力攻めの難しさを示した | 情報戦・交渉・地域関係の重要性を示した |
| 見どころ | 武田信玄の苦戦 | 真田幸隆の存在感 |
この違いを見ると、戦国時代の城攻めが、単に兵力や武勇だけで決まるものではなかったことがわかります。
砥石城をめぐる戦いは、武田信玄の力攻めの失敗と、真田幸隆の働きによる巻き返しが対照的に見える出来事でもあります。

砥石城攻略で重要な役割を果たしたとされるのが、真田幸隆です。
真田幸隆は、のちの真田昌幸の父であり、真田信繁、いわゆる真田幸村の祖父にあたる人物でもあります。
真田幸隆がどのような人物だったのか、武田信玄との関係や真田家へのつながりは、こちらの記事で詳しく紹介しています。
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砥石崩れは信玄の信濃侵攻にどんな影響を与えたのか
この章のポイント
- 砥石崩れは信玄の信濃侵攻をさらに停滞させた
- 村上義清の存在感を示す出来事になった
- その後の武田方の巻き返しにもつながった
砥石崩れは、武田信玄の信濃侵攻に大きな影響を与えました。
まず、武田軍の信濃侵攻はさらに停滞します。
上田原の戦いに続いて砥石城攻略にも失敗したことで、武田信玄にとって村上義清は大きな脅威となりました。
また、村上義清の存在感も高まりました。
武田信玄を二度にわたって苦しめたことは、信濃の勢力関係にも影響を与えたと考えられます。
一方で、砥石崩れは武田方にとって終わりではありませんでした。
その後、真田幸隆の働きによって砥石城を攻略したとされ、武田方は巻き返していきます。
砥石崩れが与えた影響を整理すると、次のようになります。
| 影響 | 内容 |
|---|---|
| 信濃侵攻の停滞 | 上田原に続き、武田軍の進出が大きく止められた |
| 村上義清の存在感 | 信玄を苦しめる強敵としての印象が強まった |
| 砥石城の重要性 | 信濃支配における拠点攻略の難しさが明らかになった |
| 武田方の課題 | 力攻めだけでは信濃攻略が難しいことを示した |
| その後の巻き返し | 真田幸隆の働きによる砥石城攻略へつながった |
砥石崩れは、信玄にとって大きな敗戦でした。
しかし、この敗戦があったからこそ、武田方は信濃攻略の方法を変えていく必要に迫られたともいえます。
つまり、砥石崩れは、信玄の失敗であると同時に、武田方の巻き返しへつながる転換点でもあったのです。
砥石崩れをどう見るべきか
この章のポイント
- 砥石崩れは信玄の大きな敗戦だった
- 村上義清の強さを示す出来事でもあった
- 真田幸隆の登場によって、武田方の巻き返しへつながった
砥石崩れは、武田信玄の敗戦として語られる出来事です。
その見方は間違いではありません。
武田信玄は砥石城を攻めたものの、攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けました。
しかし、砥石崩れを「信玄が負けた戦い」とだけ見ると、この出来事の面白さは少し見えにくくなります。
砥石崩れには、いくつもの見方があります。
| 見方 | 内容 |
|---|---|
| 信玄の敗戦 | 砥石城を攻略できず、大きな損害を受けた |
| 村上義清の強さ | 上田原に続いて武田軍を苦しめた |
| 山城攻略の難しさ | 砥石城のような山城を攻める難しさが見える |
| 信濃侵攻の難しさ | 武田氏が一方的に勝ち続けたわけではない |
| 真田幸隆の存在感 | その後の巻き返しに重要な役割を果たした |
砥石崩れは、信玄の失敗を知るうえで重要です。
同時に、村上義清の強さや、信濃攻略の難しさ、そして真田幸隆の存在感を知るうえでも重要な出来事です。
上田原の戦いと砥石崩れをあわせて見ると、武田信玄の信濃侵攻は、決して簡単なものではなかったことがよくわかります。
そして、その苦戦を乗り越えていく過程に、武田家の強さや、真田氏の台頭が見えてくるのです。
まとめ|砥石崩れは信玄の敗戦であり、武田方の巻き返しへの転換点だった
今回は、砥石崩れと砥石城について紹介しました。
砥石崩れは、1550年に武田信玄が砥石城を攻めたものの、攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けた出来事です。
上田原の戦いに続いて、村上義清が武田信玄を苦しめた重要な出来事でした。
この記事のポイントを整理すると、以下の通りです。
- 砥石崩れは1550年に起きた
- 武田信玄が砥石城を攻めた
- 砥石城は村上方の重要拠点だった
- 武田軍は攻略に失敗し、退却時に大きな損害を受けた
- 村上義清は上田原に続いて信玄を苦しめた
- その後、真田幸隆の働きによって砥石城は武田方に落ちたとされる
- 砥石崩れは、信玄の敗戦であると同時に、武田方の巻き返しへつながる出来事だった
砥石崩れは、信玄の苦戦、村上義清の強さ、真田幸隆の存在感が交差する重要な出来事です。
武田信玄の信濃侵攻がどれほど難しかったかを知るうえでも、そしてその後の武田方の巻き返しを理解するうえでも、欠かせないテーマといえるでしょう。
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