
駿河侵攻とは、武田信玄が、今川氏の領国だった駿河へ攻め込んだ出来事です。
駿河は、現在の静岡県中部・東部にあたる地域です。
それまで武田氏・北条氏・今川氏は、甲相駿三国同盟によって結びついていました。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏の力は大きく揺らぎます。
その流れの中で、武田信玄は今川氏の領国である駿河へ進みました。
つまり、駿河侵攻は単なる「武田信玄が今川氏を攻めた出来事」ではありません。
甲相駿三国同盟の崩壊、今川氏の弱体化、武田信玄の南進戦略、北条氏や徳川家康との関係変化が重なる、非常に重要な出来事です。
この記事では、武田信玄の駿河侵攻について、初心者にもわかりやすく整理します。
・駿河侵攻とは何か
・なぜ武田信玄は今川氏を攻めたのか
・甲相駿三国同盟と駿河侵攻の関係
・駿河が武田信玄にとって重要だった理由
・駿河侵攻によって武田・北条・今川・徳川の関係がどう変わったのか
- 駿河侵攻とは?まずは簡単にいうと
- なぜ武田信玄は駿河を狙ったのか
- 甲相駿三国同盟との関係
- 桶狭間後の今川氏の弱体化
- 駿河侵攻の流れ
- 北条氏や徳川家康との関係
- 駿河侵攻によって何が変わったのか
- 武田信玄の戦略の中での意味
- 駿河侵攻ゆかりの場所
- 駿河侵攻を理解するための関連記事
- まとめ|駿河侵攻は甲相駿三国同盟崩壊と武田信玄の南進を示す出来事
駿河侵攻とは?まずは簡単にいうと
・駿河侵攻は、武田信玄が今川氏の領国である駿河へ攻め込んだ出来事
・背景には、桶狭間の戦い後の今川氏の弱体化があった
・甲相駿三国同盟の崩壊を象徴する出来事でもある
駿河侵攻とは、武田信玄が今川氏の領国である駿河へ攻め込んだ出来事です。
時期としては、永禄11年(1568)から始まる動きとして語られることが多いです。
駿河は、現在の静岡県中部・東部にあたる地域です。
当時、駿河は今川氏の中心地でした。
今川義元の時代、今川氏は駿河・遠江・三河に勢力を持つ有力大名でした。
しかし、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に討たれます。
その後、今川氏真が家を継ぎますが、今川氏の勢力は大きく揺らいでいきました。
その弱体化した今川氏に対して、武田信玄が駿河へ進んだのが駿河侵攻です。
駿河侵攻の基本情報
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 読み方 | するがしんこう |
| 時期 | 永禄11年(1568)ごろから |
| 攻めた側 | 武田信玄 |
| 攻められた側 | 今川氏真 |
| 主な舞台 | 駿河国、駿府周辺、薩埵峠周辺など |
| 関係する勢力 | 武田氏、今川氏、北条氏、徳川氏 |
| ポイント | 甲相駿三国同盟の崩壊と、武田信玄の南進を示す出来事 |

駿河侵攻を理解するには、先に甲相駿三国同盟を押さえるとわかりやすいです。
甲相駿三国同盟については、こちらの記事で詳しく整理しています。
なぜ武田信玄は駿河を狙ったのか
・駿河は、武田信玄にとって南にある重要地域だった
・海への出口や東海道につながる意味があった
・桶狭間後に今川氏が弱体化したことで、駿河を狙いやすくなった
では、なぜ武田信玄は駿河を狙ったのでしょうか。
理由はいくつかありますが、初心者向けに整理すると、次の三つが大きいです。
| 理由 | 内容 |
|---|---|
| 海への出口 | 甲斐は内陸国であり、駿河へ進むと海に出られる |
| 東海道への接続 | 駿河は東海道に関わる重要地域だった |
| 今川氏の弱体化 | 桶狭間後、今川氏の支配が揺らいでいた |
甲斐は内陸国だった
武田信玄の本拠地である甲斐国は、現在の山梨県にあたります。
甲斐は内陸の国です。
山に囲まれた地域であり、海には面していません。
一方、駿河は太平洋に面した地域です。
駿河へ進めば、武田氏は海に近づくことができます。
もちろん、戦国大名の戦略を「海が欲しかった」だけで単純に説明することはできません。
しかし、内陸の甲斐を本拠とする武田氏にとって、駿河は非常に魅力的な地域でした。
駿河は東海道につながる重要地域だった
駿河は、東海道にも関わる重要な場所です。
東海道は、京都・尾張・三河・遠江・駿河・相模方面をつなぐ交通の大きな軸でした。
駿河を押さえることは、単に領土を増やすだけではありません。
人や物の動き、軍勢の移動、外交関係にも大きく関わります。
武田信玄にとって、駿河を押さえることは、南へ勢力を広げるうえで大きな意味を持ちました。

今川氏が弱体化していた
もう一つ大きいのが、今川氏の弱体化です。
今川義元の時代、今川氏は駿河・遠江・三河に勢力を持つ有力大名でした。
しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏の力は大きく揺らぎます。
今川氏真が跡を継ぎますが、三河では松平元康、のちの徳川家康が今川氏から離れていきました。
こうして今川氏の支配が弱まっていく中で、武田信玄は駿河へ目を向けるようになります。
甲相駿三国同盟との関係
・武田・北条・今川は、もともと甲相駿三国同盟で結ばれていた
・駿河侵攻は、同盟相手だった今川氏を攻める行動だった
・そのため、北条氏との関係にも大きな影響を与えた
駿河侵攻を語るうえで欠かせないのが、甲相駿三国同盟です。
甲相駿三国同盟とは、甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏による同盟です。
三者は婚姻関係によって結びつき、互いの背後を安定させていました。
武田信玄にとっては、南の今川氏、東の北条氏との関係を安定させることで、信濃方面へ進みやすくなる意味がありました。

つまり、甲相駿三国同盟は、武田信玄の信濃侵攻や川中島の戦いを理解するうえでも重要な背景です。
武田信玄の信濃侵攻については、こちらの記事で詳しく整理しています。
川中島の戦いについては、こちらの記事で全体像を解説しています。
同盟相手を攻めることになった
駿河侵攻の大きなポイントは、武田信玄が、もともとの同盟相手である今川氏を攻めたことです。
武田氏と今川氏は、甲相駿三国同盟によって結ばれていました。
しかし、桶狭間の戦い後に今川氏が弱体化すると、信玄は駿河へ進みます。
この動きによって、甲相駿三国同盟は大きく崩れていきました。
北条氏との関係も悪化した
駿河侵攻は、今川氏との関係だけでなく、北条氏との関係にも影響しました。
なぜなら、北条氏も甲相駿三国同盟の一角だったからです。
さらに、北条氏は今川氏と婚姻関係でも結ばれていました。
そのため、武田信玄が今川領へ攻め込むことは、北条氏にとっても見過ごしにくい動きでした。
結果として、武田氏と北条氏の関係も悪化していきます。
桶狭間後の今川氏の弱体化
・桶狭間の戦いで今川義元が討たれた
・今川氏真が跡を継いだが、今川氏の勢力は揺らいだ
・徳川家康の独立や三河・遠江方面の変化も、今川氏の弱体化につながった
駿河侵攻の背景には、桶狭間の戦い後の今川氏の弱体化があります。
永禄3年(1560)、今川義元は尾張方面へ進みました。
しかし、桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、討たれます。
今川義元は、今川氏の中心人物でした。
その義元が突然いなくなったことは、今川氏にとって非常に大きな打撃でした。
今川氏真が跡を継ぐ
今川義元の死後、今川氏真が跡を継ぎました。
氏真は、今川家を守ろうとします。
しかし、義元の時代のような強い支配を維持することは難しくなっていきます。
三河では、松平元康、のちの徳川家康が今川氏から離れ、自立していきました。
遠江でも、今川氏の支配は揺らぎます。
こうした状況の中で、武田信玄は今川氏の弱体化を見て、駿河へ進む判断をしたと考えられます。
今川氏の弱体化は周辺勢力を動かした
今川氏が弱体化すると、周辺の勢力も動き始めます。
武田信玄は駿河へ。
徳川家康は遠江方面へ。
北条氏は今川氏を支援しつつ、武田氏との関係を見直すことになります。
つまり、桶狭間の戦いは、今川氏だけでなく、武田・北条・徳川を巻き込む大きな変化の始まりでもありました。
駿河侵攻の流れ
・武田信玄は今川氏の弱体化を背景に駿河へ進んだ
・今川氏真は駿府を離れ、遠江の掛川城へ逃れた
・北条氏や徳川家康も関わり、駿河侵攻は周辺勢力を巻き込む動きになった
ここからは、駿河侵攻の流れを大まかに見ていきます。
細かな戦いの経過には複雑な点もあります。
初心者向けには、まず次の流れで押さえるとわかりやすいです。
| 流れ | 内容 |
|---|---|
| 1 | 桶狭間の戦い後、今川氏の力が弱まる |
| 2 | 武田信玄が駿河へ進む |
| 3 | 今川氏真は駿府を離れる |
| 4 | 徳川家康も遠江方面へ動く |
| 5 | 北条氏が今川氏を支援し、武田氏と対立する |
| 6 | 武田氏・北条氏・徳川氏の関係が大きく変わる |
武田信玄が駿河へ進む
武田信玄は、今川氏の領国である駿河へ侵攻しました。
これは、甲相駿三国同盟の関係を大きく壊す行動でした。
武田氏にとっては、駿河を押さえることで南へ勢力を伸ばす狙いがありました。
一方、今川氏にとっては、中心地を脅かされる重大な危機でした。
今川氏真は掛川城へ逃れる
駿河侵攻によって、今川氏真は駿府を離れることになります。
氏真は、遠江の掛川城へ逃れました。
掛川城は、今川氏の重臣である朝比奈氏と関わる城として知られます。
この動きからも、今川氏が駿河の中心地を維持することが難しくなっていたことがわかります。
徳川家康も遠江方面へ動く
駿河侵攻と同じ時期、徳川家康も遠江方面へ動きます。
家康はもともと今川氏に従っていた立場でした。
しかし、桶狭間の戦い後に今川氏から離れ、三河で自立していきます。
その後、今川氏の弱体化に合わせて、遠江方面へ勢力を伸ばしていきました。
このため、駿河侵攻は、武田氏と今川氏だけの問題ではありません。
徳川家康の動きとも重なり、今川領をめぐる大きな再編につながっていきます。
北条氏が今川氏を支援する
一方で、北条氏は今川氏を支援する立場に回ります。
北条氏は、今川氏と婚姻関係を持っていました。
そのため、武田信玄が今川領へ攻め込むことは、北条氏にとっても大きな問題でした。
こうして、駿河侵攻は、武田氏と北条氏の対立にもつながっていきます。

北条氏や徳川家康との関係
・駿河侵攻によって、武田氏と北条氏の関係は悪化した
・徳川家康は遠江方面へ進み、今川領の再編に関わった
・駿河侵攻は、武田・北条・今川・徳川の関係を大きく変えた
駿河侵攻の面白さは、武田氏と今川氏だけの話ではないところです。
この出来事には、北条氏や徳川家康も深く関わります。
北条氏|同盟相手から敵対へ
北条氏は、もともと武田氏と同盟関係にありました。
しかし、武田信玄が今川氏を攻めたことで、北条氏は武田氏と対立するようになります。
北条氏にとって、今川氏は婚姻関係で結ばれた相手でした。
その今川氏を武田氏が攻めたため、北条氏は今川氏を支援する方向へ動きます。
こうして、甲相駿三国同盟は崩れ、武田氏と北条氏の関係は悪化していきました。
徳川家康|今川領から自立し、遠江へ
徳川家康も、駿河侵攻の流れの中で重要な存在です。
家康はもともと松平元康として、今川氏のもとで過ごした時期がありました。
しかし、桶狭間の戦い後に今川氏から離れ、三河で自立します。
その後、今川氏の弱体化に合わせて、遠江方面へ進みました。
つまり、今川氏の衰退によって、武田信玄は駿河へ、徳川家康は遠江へと動いていくことになります。
今川氏|大名としての力を失っていく
今川氏真は、駿河侵攻によって大きな打撃を受けました。
駿府を離れ、掛川城へ逃れたことは、今川氏の支配が大きく揺らいだことを示しています。
その後、今川氏は戦国大名としての力を失っていきます。
今川氏は、かつて東海道の有力大名でした。
しかし、桶狭間の戦いと駿河侵攻を経て、その勢力は大きく変わっていったのです。

駿河侵攻によって何が変わったのか
・甲相駿三国同盟が崩れた
・武田氏は駿河方面へ勢力を広げた
・北条氏や徳川氏との関係が変化し、東国の勢力図が大きく動いた
駿河侵攻によって、東国の勢力関係は大きく変わりました。
大きく見ると、変化は三つあります。
甲相駿三国同盟が崩れた
まず、甲相駿三国同盟が崩れました。
武田・北条・今川の三者は、婚姻関係によって結ばれていました。
しかし、武田信玄が今川領へ攻め込んだことで、この関係は大きく崩れます。
同盟は、戦国大名にとって重要な安全保障でした。
その同盟が崩れたことで、武田氏・北条氏・今川氏の関係は大きく変化しました。
武田氏が南へ広がった
次に、武田氏が南へ勢力を広げたことです。
それまで武田信玄は、信濃侵攻や川中島の戦いなど、北や北東方面の動きが目立ちました。
しかし、駿河侵攻によって、武田氏は南の駿河へ進みます。
これは、武田信玄の戦略が新しい段階へ進んだことを示しています。
徳川家康との関係も重要になった
さらに、徳川家康との関係も重要になります。
駿河侵攻の流れの中で、家康は遠江方面へ勢力を広げていきました。
その結果、武田氏と徳川氏は、今後、遠江・三河方面で向き合うことになります。
後の三方ヶ原の戦いへつながる流れを考えるうえでも、駿河侵攻は重要です。
武田信玄の戦略の中での意味
・駿河侵攻は、武田信玄の生涯後半を理解する重要な出来事
・信濃・川中島の次に、信玄の目線が南へ向かったことを示す
・西上作戦や徳川家康との対立を理解するうえでも大切
駿河侵攻は、武田信玄の戦略を理解するうえでとても重要です。
武田信玄の前半から中盤を見ると、信濃侵攻や川中島の戦いが大きなテーマになります。
信玄は信濃へ進み、北信濃で上杉謙信とぶつかりました。
しかし、その後の武田信玄を見ると、駿河・遠江・三河方面への動きが重要になっていきます。
駿河侵攻は、まさにその転換点として見ることができます。
信濃から駿河へ
武田信玄は、甲斐を本拠に信濃へ勢力を広げました。
その結果、川中島の戦いで上杉謙信と対立します。
しかし、川中島の戦いだけで武田信玄の生涯を理解することはできません。
信玄はその後、南の駿河へ進みます。
この動きによって、今川氏、北条氏、徳川家康との関係が大きく変化しました。
武田信玄の生涯については、こちらの記事で全体を整理しています。
西上作戦への前段階としても重要
駿河侵攻によって、武田氏は東海道方面に関わりを強めていきます。
その後、武田信玄は遠江・三河方面へ進み、徳川家康と対立します。
そして、三方ヶ原の戦いへつながっていきます。
つまり、駿河侵攻は、信玄の生涯後半を理解するための重要な橋渡しです。
信濃侵攻と川中島の戦いだけでなく、駿河侵攻を見ることで、武田信玄の戦略がより立体的に見えてきます。
駿河侵攻によって、武田信玄の戦略は東海方面へ広がっていきました。
その流れの中で起きた大きな戦いが、徳川家康を破った三方ヶ原の戦いです。
三方ヶ原の戦いとは?武田信玄が徳川家康を破った戦いをわかりやすく解説
駿河侵攻ゆかりの場所
・駿府城周辺は、今川氏の本拠地だった今川館と関わる場所
・掛川城は、今川氏真が逃れた場所として関係する
・薩埵峠周辺は、駿河侵攻や武田・北条の対立を考えるうえで重要
駿河侵攻は、現在の静岡県内にゆかりの場所が残る出来事です。
ここでは、駿河侵攻を理解するうえで知っておきたい場所を紹介します。
駿府城・今川館跡
駿府城周辺は、今川氏の本拠地だった今川館と関わる場所です。
現在の駿府城は、徳川家康の城として知られることが多いです。
しかし、それ以前には、今川氏の中心地としての歴史もあります。
駿河侵攻を考えるとき、駿府は今川氏の中心地として重要です。
武田信玄が駿河へ進んだことは、今川氏の本拠を揺るがす大きな出来事でした。
掛川城
掛川城は、今川氏真が駿府を離れたあとに逃れた場所として関係します。
駿河侵攻によって今川氏真は駿府を維持できなくなり、遠江の掛川城へ向かいました。
掛川城は、今川氏の重臣・朝比奈氏とも関わる城です。
駿河侵攻後の今川氏の動きを知るうえで、掛川城は重要な場所です。
薩埵峠
薩埵峠は、駿河国の東部にある交通の要所です。
東海道の難所としても知られ、駿河と相模方面をつなぐうえで重要な場所でした。
駿河侵攻後、武田氏と北条氏が対立する中で、薩埵峠周辺は重要な舞台になります。
地形や交通の要所を意識すると、駿河侵攻が単なる領土争いではなく、東海道や周辺勢力の動きとも関わる出来事だったことが見えてきます。
武田氏館
武田氏館は、武田信玄の本拠地です。
駿河侵攻は駿河で起きた出来事ですが、その判断をした武田信玄の本拠は甲斐にありました。
武田氏館を起点に、北の信濃、南の駿河、東の相模を考えると、信玄の戦略がよりわかりやすくなります。
武田氏館については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
駿河侵攻を理解するための関連記事
・駿河侵攻は、甲相駿三国同盟の崩壊とあわせて読むと理解しやすい
・武田信玄の生涯や家臣団の記事とあわせると、信玄の戦略が見えやすい
・信濃侵攻や川中島の戦いと比べると、信玄の動きの変化がわかる
駿河侵攻は、単独で見ても重要な出来事です。
ただし、武田信玄の動き全体の中で見ると、さらに理解しやすくなります。
武田信玄を知る
武田信玄の生涯
武田信玄がどのように甲斐から信濃、駿河、遠江方面へ勢力を広げたのかを整理した親記事です。
武田信玄の家臣団
武田信玄の強さを支えた家臣団を、軍事・調略・前線支配・外交などの役割ごとに整理した記事です。
武田信玄の本名
武田信玄の名前について、幼名・諱・法名まで整理した記事です。
甲相駿三国同盟を知る
甲相駿三国同盟
駿河侵攻の前提になる、武田・北条・今川の同盟関係を整理した記事です。
信濃侵攻と川中島を知る
武田信玄の信濃侵攻
武田信玄が信濃方面へ進んだ流れを整理した記事です。駿河侵攻と比べると、信玄の戦略の変化が見えやすくなります。
川中島の戦い
武田信玄と上杉謙信が北信濃をめぐって争った戦いです。駿河侵攻以前の信玄の大きな動きを理解するうえで重要です。
第四次川中島の戦い
川中島の戦いの中でも、もっとも有名な第四次川中島の戦いを詳しく整理した記事です。
関係する城を知る
武田氏館
武田信玄の本拠地だった武田氏館の記事です。甲斐から信濃・駿河へ広がる信玄の動きを考えるうえで役立ちます。
春日山城
上杉謙信の本拠地です。信濃侵攻や川中島の戦いとあわせて読むと、駿河侵攻以前の武田信玄の動きが理解しやすくなります。
まとめ|駿河侵攻は甲相駿三国同盟崩壊と武田信玄の南進を示す出来事
・駿河侵攻は、武田信玄が今川氏の領国である駿河へ攻め込んだ出来事
・背景には、桶狭間の戦い後の今川氏の弱体化があった
・駿河侵攻によって甲相駿三国同盟は崩れ、武田・北条・今川・徳川の関係が大きく変わった
駿河侵攻は、武田信玄が今川氏の領国である駿河へ攻め込んだ出来事です。
背景には、桶狭間の戦い後の今川氏の弱体化がありました。
今川義元が討たれたことで、今川氏の支配は大きく揺らぎます。
その流れの中で、武田信玄は駿河へ進みました。
駿河は、甲斐を本拠とする武田氏にとって、南にある重要な地域でした。
海への出口や東海道との関係を考えても、駿河を押さえることには大きな意味がありました。
一方で、駿河侵攻は、甲相駿三国同盟を大きく崩す出来事でもありました。
武田氏・北条氏・今川氏の関係は変化し、徳川家康も遠江方面へ進んでいきます。
つまり、駿河侵攻は、単なる今川氏攻めではありません。
武田信玄の南進、甲相駿三国同盟の崩壊、今川氏の衰退、北条氏や徳川氏との関係変化が重なる重要な出来事です。
この駿河侵攻を知ると、武田信玄の生涯後半や、のちの三方ヶ原の戦いへ向かう流れも理解しやすくなります。