武田信玄の人生を語るうえで、避けて通れない出来事があります。
それが、父・武田信虎の追放です。
のちに武田信玄として知られる武田晴信は、父・信虎のもとに生まれた武田家の嫡男でした。
この時点の晴信は、まだ「武田信玄」ではなく、武田晴信として活動していた時期です。
「晴信」と「信玄」の違いや、幼名・諱・法名の整理については、こちらの記事で詳しく解説しています。
しかし、天文10年(1541年)、信玄は父・信虎を甲斐国から追放し、自ら武田家の当主となります。
父を追放して家督を継ぐ。
現代の感覚で見ると、かなり衝撃的な出来事です。
ただし、この事件は単なる親子喧嘩ではありませんでした。
親子の対立、家臣団の不満、甲斐国内の疲弊、そして駿河の今川氏との関係。
いくつもの要因が重なった結果、信虎追放という大きな政変が起きたと考えられます。
この記事では、武田信玄がなぜ父・信虎を追放したのか、その理由と背景をわかりやすく整理していきます。
この記事でわかること
- 武田信玄が父・信虎を追放した理由
- 信虎追放が起きた1541年の流れ
- 親子不和だけでは説明できない背景
- 信虎追放後、武田家がどう変わったのか

- 信虎追放とはどんな事件だったのか
- 武田信虎はどんな人物だったのか
- なぜ信玄は父・信虎を追放したのか
- 信虎の「暴君」イメージは本当か
- 甲斐国内の疲弊と家臣団の不満
- 今川義元との関係と計画的な政変
- 信虎追放後、武田家はどう変わったのか
- 信虎追放を現地で感じるなら武田氏館跡へ
- まとめ|信虎追放は武田信玄の時代を開いた大事件だった
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信虎追放とはどんな事件だったのか
この章のポイント
- 1541年、武田信玄は父・信虎を甲斐から追放した
- 信虎は駿河へ向かったあと、甲斐への帰国を阻まれた
- この事件によって、信玄が武田家の当主となった
信虎追放とは、天文10年(1541年)に、武田信玄が父・武田信虎を甲斐国から追放し、武田家の家督を継いだ事件です。
武田信虎は、現在の武田氏館跡、つまり躑躅ヶ崎館を本拠とし、甲斐国内の国人衆をまとめた人物でした。
信虎は決して無能な人物ではありません。
むしろ、甲斐を統一し、武田氏を戦国大名として成長させる土台を作った重要人物です。
しかし、その信虎は最終的に、実の息子である信玄によって甲斐から追放されることになります。
事件の流れを簡単に見ると、信虎は駿河の今川氏のもとへ向かいます。
ところが、その後に甲斐へ戻ろうとした信虎は、国境で帰国を阻まれました。
このとき、すでに信玄や重臣たちは、信虎を甲斐へ戻さない方針を固めていたと考えられます。
信虎追放は、その場の勢いで起きた親子喧嘩ではなく、事前に準備された政変だった可能性が高い事件です。
この事件によって、信玄は武田家の当主となりました。
のちに「戦国最強」とも呼ばれる武田信玄の時代は、ここから始まります。

武田信虎はどんな人物だったのか
この章のポイント
- 信虎は甲斐をまとめた実力者だった
- 躑躅ヶ崎館を築き、甲府を政治の中心にした
- 一方で、強引な支配や度重なる戦が反発を生んだ可能性もある
父・信虎を追放したという話だけを聞くと、信虎は悪い人物だったのかと思ってしまうかもしれません。
しかし、そう単純には言えません。
武田信虎は、甲斐国をまとめ上げた実力者でした。
もともと甲斐国は、武田氏の力が常に安定していたわけではありません。
国内には有力な国人衆がいて、武田氏に従ったり、反発したりしながら、それぞれの勢力を保っていました。
そうした中で、信虎は甲斐国内の対立をおさえ、武田氏の支配を強めていきます。
その大きな象徴が、躑躅ヶ崎館の築造です。
信虎は甲府の地に居館を移し、その周囲に家臣たちを集めました。
これは単なる引っ越しではありません。
甲斐国を一つにまとめ、武田氏の支配体制を強化するための大きな政策でした。
つまり信虎は、武田氏が戦国大名として成長するための土台を作った人物だったのです。
一方で、信虎の政治はかなり強引だったとも考えられます。
国人衆を従わせる。
家臣を本拠の近くに集める。
外へも積極的に兵を出す。
こうした政策は、武田家を強くする一方で、家臣や領民に大きな負担をかけた可能性があります。
信虎は強い武将でした。
しかし、その強さが、やがて家臣団や国内の不満につながっていったのかもしれません。
ここが重要
信虎は「追放された人物」ではありますが、甲斐をまとめ、武田氏の基盤を築いた人物でもあります。 だからこそ、信虎追放は「悪い父を倒した話」ではなく、武田家の体制が大きく変わった事件として見ることが大切です。
なぜ信玄は父・信虎を追放したのか
この章のポイント
- 信虎追放の理由は、一つに決められない
- 親子不和、家臣団の不満、外交方針、国内の疲弊など複数の要因が考えられる
- 「信虎が悪人だったから」とだけ見ると、事件の本質が見えにくい
信虎追放の理由については、昔からさまざまな説があります。
有名なのは、親子不和説です。
信玄と信虎の仲が悪く、信虎が信玄を嫌っていたため、信玄が先に動いたという見方です。
また、信虎が信玄ではなく、弟の武田信繁をかわいがっていたため、信玄が危機感を持ったという話もあります。
この話はとてもわかりやすいです。
父が弟をかわいがる。
兄である信玄は、自分が家督を継げないかもしれないと感じる。
そこで父を追放した。
物語としては、かなりドラマチックです。
ただし、信虎追放を親子不和だけで説明してしまうと、少し単純すぎるかもしれません。
なぜなら、信虎を追放するには、信玄一人の力だけでは足りないからです。
父を追放し、国主の座につくには、家臣団の支持が必要です。
とくに武田家のように有力な家臣や国人衆を抱える戦国大名家では、家中の支持を得られなければ、政変は成功しません。
信虎追放の背景には、主に次のような要因があったと考えられます。
| 背景 | 内容 |
|---|---|
| 親子不和 | 信玄と信虎の関係が悪化していた可能性 |
| 家臣団の不満 | 度重なる戦や強引な支配への反発 |
| 甲斐国内の疲弊 | 飢饉・災害・疫病などによる不安 |
| 今川氏との関係 | 信虎が駿河へ向かったタイミングを利用した可能性 |
信虎の時代、武田家は戦を重ねていました。
甲斐国内の支配を強めるだけでなく、信濃方面への進出も進めていきます。
こうした動きは武田家を強くする一方で、家臣や領民に大きな負担をかけます。
兵を出す。
物資を集める。
年貢や負担が重くなる。
しかも、当時の甲斐では飢饉や災害、疫病もたびたび起きていました。
戦による負担に、自然災害や飢饉が重なれば、国内の不満は高まります。
そう考えると、信虎追放は単なる親子の対立ではなく、甲斐国内の政治不安が表面化した事件とも言えます。

つまり
信虎追放は、親子不和だけでなく、家臣団の不満、甲斐国内の疲弊、今川氏との関係が重なって起きた政変だったと考えられます。
信虎の「暴君」イメージは本当か
この章のポイント
- 後世の軍記物では、信虎は厳しく横暴な人物として描かれやすい
- ただし、すべてをそのまま事実と見るのは注意が必要
- 信虎は甲斐を統一した功労者でもあった
信虎追放を語るとき、信虎はしばしば「暴君」のように語られます。
家臣や領民を苦しめた。
横暴だった。
だから追放された。
この説明はわかりやすいですが、少し注意が必要です。
戦国時代の人物については、後の時代に作られた軍記物や伝承によって、イメージが強く形づくられていることがあります。
信虎の場合も、追放された側の人物であるため、のちの武田信玄の正当性を示すために、悪く描かれやすかった可能性があります。
つまり、「信虎が悪かったから信玄が追放した」という形にすると、信玄の行動が正当化されやすいのです。
ここは、よくあるイメージと見直したいポイントを分けて考えるとわかりやすくなります。
| よくあるイメージ | 見直したいポイント |
|---|---|
| 信虎は横暴な暴君だった | 後世の軍記物や伝承によって、悪く描かれた可能性がある |
| 信虎は家臣に嫌われていた | 一方で、甲斐を統一した実力者でもあった |
| 信玄は悪い父を倒した | 実際には家臣団や外交も絡む、計画的な政変だった可能性が高い |

もちろん、信虎の政治が厳しかった可能性はあります。
ただし、信虎は甲斐をまとめ、躑躅ヶ崎館を築き、武田氏の戦国大名化を進めた人物でもあります。
もし信虎が本当に何もできない暴君だったなら、そもそも甲斐を統一し、武田氏の基盤を築くことは難しかったでしょう。
信虎は、強いリーダーでした。
ただし、その強さは時に厳しさとなり、家臣や領民に大きな負担をかけたのかもしれません。
だからこそ、信虎追放は「悪い父を倒した正義の息子」というよりも、武田家の中で支配のあり方を変えるための政変として見ると、より理解しやすくなります。
つまり
信虎は単なる暴君ではなく、甲斐をまとめた実力者でした。 その一方で、強引な支配や戦の負担が不満を生み、追放につながった可能性があります。
甲斐国内の疲弊と家臣団の不満
この章のポイント
- 信虎の時代、甲斐では飢饉・災害・疫病がたびたび起きていた
- 戦の負担と自然災害が重なり、国内は不安定だった
- 家臣団は、武田家の存続のために当主交代を選んだ可能性がある
信虎追放を考えるうえで、見逃せないのが甲斐国内の状況です。
戦国時代の大名は、戦だけをしていたわけではありません。
国を治め、年貢を集め、家臣をまとめ、領民の暮らしを安定させる必要がありました。
しかし、当時の甲斐は決して豊かな条件に恵まれていたわけではありません。
山が多く、平地は限られています。
川の氾濫や干ばつ、大風、大雪などの自然災害もあります。
さらに、飢饉や疫病が重なれば、領民の暮らしは一気に苦しくなります。
信虎の時代には、こうした災害や飢饉が何度も起きていました。
食料不足が起きれば、米や麦などの価格が上がります。
物価が乱れれば、領民だけでなく、家臣たちの暮らしにも影響が出ます。
そのような状況で戦が続けば、国内の不満はさらに高まっていきます。
信虎は外へ兵を出し、甲斐の勢力を広げようとしました。
それ自体は戦国大名として自然な動きです。
しかし、国内が疲弊しているときに戦を続ければ、家臣や領民から「このままでよいのか」という不満が出ても不思議ではありません。
信虎追放は、父子の対立だけでなく、戦国大名としての拡大路線に対する反発でもあったのかもしれません。
このとき重要なのが、重臣たちの存在です。
武田家には、板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌といった有力な家臣がいました。
彼らのような重臣たちが信玄を支持したことで、信虎追放は成功したと考えられます。
では、なぜ家臣たちは信玄を支持したのでしょうか。
一つは、信虎の政治や軍事方針への不満です。
度重なる戦で家臣たちが疲弊していたとすれば、当主交代によって状況を変えたいと考えた可能性があります。
もう一つは、信玄への期待です。
若い信玄を立てることで、家臣団が新しい体制を作りやすくなるという判断もあったかもしれません。
ただし、信玄は単なる飾りの当主ではありませんでした。
信虎追放後、信玄は甲斐をまとめ、信濃侵攻を進め、武田氏をさらに大きな勢力へと成長させていきます。
家臣団に支えられて当主となった若き信玄は、やがて自らの力で戦国大名としての存在感を高めていくことになります。
ここが重要
信虎追放が成功したのは、信玄一人の力だけではありません。 重臣たちを含む家臣団の支持があったからこそ、武田家の当主交代は実現したと考えられます。
今川義元との関係と計画的な政変
この章のポイント
- 信虎追放には、駿河の今川氏との関係も関わっていた
- 信虎は駿河へ向かったあと、甲斐への帰国を阻まれた
- 信玄側が事前に今川氏と連携していた可能性がある
信虎追放でもう一つ重要なのが、今川氏との関係です。
信虎は駿河の今川義元と関係を持っていました。
そして追放のとき、信虎は駿河へ向かい、その後、甲斐へ戻ることができなくなります。
ここから考えると、信玄側は、信虎が甲斐を離れたタイミングを利用した可能性が高いです。
甲斐国内に信虎がいる状態で追放を実行すれば、内戦になる危険があります。
信虎に味方する家臣が現れれば、武田家は二つに割れてしまいます。
しかし、信虎が甲斐を離れている間に国境を押さえれば、大きな戦を避けながら政権交代を進めることができます。
この点で、信虎追放は非常に計画的な政変だったと見ることができます。
また、信虎が向かった先が今川氏であったことも重要です。
もし今川氏が信虎を支援して甲斐へ戻そうとすれば、信玄にとって大きな脅威になります。
逆に、今川氏が信玄側の動きを黙認、あるいは協力していたなら、信虎は甲斐へ戻ることができません。
信虎追放は、武田家内部の事件であると同時に、甲斐と駿河の外交関係にも関わる事件だったのです。
つまり
信虎追放は、武田家の中だけで完結した事件ではありません。 信虎が駿河へ向かったタイミングや、今川氏との関係も大きなポイントでした。
信虎追放後、武田家はどう変わったのか
この章のポイント
- 信玄は信虎追放後、武田家の当主となった
- その後、信濃侵攻を本格化させていく
- 信虎追放は、武田信玄の時代の始まりだった

信虎追放によって、信玄は武田家の当主となりました。
ここから、のちに戦国最強とも呼ばれる武田信玄の時代が始まります。
信玄はまず、甲斐国内の支配を固めます。
そして、やがて信濃方面へと勢力を広げていきます。
諏訪、佐久、小県、北信濃。
信玄の生涯で重要になる信濃侵攻は、信虎追放後の武田家の大きな流れです。
つまり、信虎追放は単なる家督相続の事件ではありません。
武田家の進む方向が、信虎の時代から信玄の時代へ切り替わった瞬間でした。
もちろん、信玄が父とまったく違う方針を取ったわけではありません。
信濃方面への進出は、信虎の時代から始まっていました。
信玄は、父が進めていた戦国大名化の流れを引き継ぎつつ、それをさらに大きく発展させていきます。
この意味で、信虎と信玄は対立した親子でありながら、武田氏を成長させた二代でもありました。
信虎が土台を築き、信玄がそれを拡大した。
そう見ると、信虎追放は「父を否定した事件」であると同時に、「父の作った仕組みを息子が引き継いだ事件」でもあったのです。
ここが重要
信虎追放は、武田信玄の時代が始まる出発点でした。 信虎が築いた土台の上で、信玄は武田氏をさらに大きな勢力へと成長させていきます。
信虎追放を現地で感じるなら武田氏館跡へ
この章のポイント
- 信虎追放を考えるなら、武田氏館跡は重要な場所
- 信虎が築き、信玄・勝頼へ受け継がれた武田家の本拠
- 現在は武田神社として知られている
信虎追放をより深く理解するなら、武田氏館跡を歩くのがおすすめです。
武田氏館跡は、現在の武田神社として知られる場所です。
もともとは、武田信虎が築いた躑躅ヶ崎館でした。
そして、信虎・信玄・勝頼の三代が本拠とした、武田家の政治拠点です。
信虎が築いた館で、信玄は父を追放し、新たな当主となりました。
そう考えると、武田氏館跡は単なる神社ではなく、武田家の大きな転換点を感じられる場所になります。
境内や周辺には、堀や土塁、虎口など、戦国大名の居館らしい遺構が残っています。
現地を歩くと、「ここで武田家の政治が行われていたのか」と実感できます。
信虎が作った本拠。
信玄が受け継いだ本拠。
勝頼の時代まで続いた武田家の中心。
武田氏館跡を歩くと、信虎追放という事件も、ただの歴史上の出来事ではなく、実際の場所とつながって見えてきます。

武田氏館跡の見どころや、実際に歩いた様子はこちらの記事で詳しく紹介しています。
まとめ|信虎追放は武田信玄の時代を開いた大事件だった
今回は、武田信玄がなぜ父・武田信虎を追放したのかを紹介しました。
信虎追放は、天文10年(1541年)に起きた武田家の大きな政変です。
信玄は父・信虎を甲斐へ戻さず、自ら武田家の当主となりました。
この事件の理由は、一つに決めることはできません。
親子不和。
信繁をめぐる家督問題。
家臣団の不満。
今川氏との関係。
甲斐国内の飢饉や災害、戦による疲弊。
さまざまな要因が重なった結果、信虎追放という大きな決断につながったと考えられます。
信虎は、武田氏を戦国大名へと成長させた重要人物でした。
しかし、その強引な支配や度重なる軍事行動は、家臣や領民に大きな負担を与えた可能性があります。
一方の信玄は、信虎を追放することで武田家の当主となり、のちに信濃侵攻や川中島の戦いへと進んでいきます。
つまり信虎追放は、武田信玄の時代が始まる出発点でした。
父を追放して当主となった若き信玄。
その後、彼は甲斐をまとめ、信濃へ勢力を広げ、戦国時代を代表する名将へと成長していきます。
武田信玄の生涯を知るうえで、信虎追放は欠かせない出来事です。
この事件を知ってから武田氏館跡を歩くと、信玄の人生の始まりがより立体的に見えてくるはずです。
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武田信玄の生涯全体については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
信虎追放だけでなく、信濃侵攻、川中島の戦い、三方ヶ原の戦い、武田家の滅亡まで、武田信玄の人生を大きな流れで知ることができます。
信虎追放したあと、武田信玄は信濃に進出していくのですが、その信濃侵攻について、こちらの記事で詳しく紹介しています。
また、信玄の本拠地である武田氏館跡については、こちらの記事で詳しく紹介しています。
現在の武田神社としての姿だけでなく、堀・土塁・虎口など、戦国大名の居館としての見どころもまとめています。